みかさの山にいでし月かも

みかさの山にいでし月かも

 古今集に以下の和歌が掲載されている。百人一種にも選ばれた阿倍仲麻呂の一句で、大方の人はご存知であろう。以下紀貫之の前書き、あとがきをそえて鑑賞してみよう。

「もろこしにて月を見てよみける」

     「あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでし月かも」

「この哥は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでござりけるを、このくにより又つかいまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、めいしうといふところのうみべにて、かのくにの人むまのはなむけにしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる」

 前書きは問題ない。あとがきは大意つぎのようなものだ。
①この歌は中国内の作歌である。
②明州(中国東海岸)における別離の宴における作歌である。
③その現地で、そこで海上に「月が出た」のを見て作ったもの、と語り伝えられている。

 阿倍仲麻呂の主な略歴を記す。
698年 阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。
717年(霊亀2年)多治比県守が率いる第8次遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。
725年 洛陽の司経局校書として任官、
728年 左拾遺、
731年 左補闕と官位を重ねた。
733年 第九次遣唐使が帰国する際に帰国を願い出たものの、玄宗の許しを得られずやむなく唐に残り、次の機会を待つことになる。
751年 第十次遣唐使が派遣され、このとき副使を勤めた吉備真備との15年ぶりの再会などを喜び、いよいよ望郷の念を強めたに違いないと思われる。玄宗に帰国を再度願い出、ようやく帰国の許可が下りたとき阿倍仲麻呂は55歳になっていた。
仲麻呂の便乗した大使藤原清河の第一船は途上で難破し、安南(現在のベトナム)に流れ着いてしまう。安南に流れ着いた第一船は現地人の襲撃を受け、180余人の乗組員のうち生き残ったのが10余人となる悲惨な体験をするが、阿倍仲麻呂や藤原清河は難を逃れ、2年後に長安に辿り着く、てっきり仲麻呂(中国名では晁衡または朝衡)が死んでしまったと思った杜甫は「嘆晁卿衡」という詩を作って哀悼したという。長安に戻った阿倍仲麻呂は再び玄宗に仕え、藤原清河も唐朝廷に仕えることになった。
第三船(吉備真備便乗)が屋久島に漂着したものの帰国
第四船(大伴古麻呂、鑑真和上便乗)も無事帰国
第二船は行方不明
753年 帰国する仲麻呂を送別する宴席の時に、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。
770年1月 長安にて死去

 当初の歌は10人中9人は奈良春日の地を思って詠んだものと思っている。どの万葉集の解説書もそう書いている。しかし考古学者古田武彦氏はこれは九州の歌であるという。
世に九州王朝説がある。歴史の主流ではないが一部信じられているようだ。その主張点を記す。
①天孫ニニギノミコトが竺紫(つくし)日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。これは長垂山の海岸に渡来したのであろう。これは博多湾の南、現在も地理上存在する。これが九州王朝の初代である。
②日本国を名乗り始めた天智天皇以前の歴史の主要な出来事はすべて北九州の出来事である。そのころ都は太宰府におかれていた。その転機になった出来事は、663年白村江の戦争の敗北である。九州王朝筑紫君薩夜麻が唐に捕虜となり、唐に連行される。8年後に帰国をゆるされる。
③古事記、日本書紀の歴史書はその原本は九州王朝で作成されていた。大和に都が移ってからは、歴史は改竄されすべて大和の出来事のごとく書きなおされ、九州王朝の痕跡を消し去った。
④原万葉集といわれる巻1、巻2は九州王朝でつくられたもので、場所、事柄は九州が主体である。九州王朝の痕跡を残す歌は削除されるか、一部内容と作者を巧妙に変更して残した。そして大伴家持以降万葉集編纂時に前書き、後書きを付して正式な歌集とした。万葉集が編纂がおわるのは平安時代になってからである。

 倭姫王は天智七年(668)二月、倭大后となる。天智天皇の危篤および崩御の際に詠んだ歌四首が万葉集に収められている。そのうちの一首をしるす。

天皇の聖躬(せいきゆう)不予(ふよ)の時、大后の奉る御歌一首

  天の原ふりさけ見れば大君の御寿(みいのち)は長く天(あま)足らしたり(万2-147)

【通釈】天空を振り仰いで見れば、天皇の御命は長く、空に満ち足りるほどである。
【補記】天智十年(671)、天智天皇臨終の際の歌。天皇は同年十二月三日、崩御。四十六歳。

倭姫王は舒明天皇の孫。古人大兄皇子の子で皇子は天智天皇に暗殺されている。倭氏とは当時百済の王系の貴族で、倭氏にひきとられて養育されたのか、後、仇の男の妻になっている。この頃の宮廷の著名人は出自がはっきりしない貴人が多い。特に有名なのは鏡王女(天智天皇の妃から中臣鎌足に下された)、額田王(天武天皇から天智天皇へ再婚、著名な女流歌人)の姉妹で、当時百済の滅亡で数千とか数万の百済王室とその家臣が日本に帰化している。その一員ではなかろうかといわれている。大阪枚方に百済王神社があるが百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移した。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。その子の南典が死去した時、朝廷は百済王の祀廟を建立させたものである。

 話を戻す。上の歌は倭姫王の作と伝えられているが、九州王朝説ではこの歌は違う解釈となる。天智天皇がいまにも死にそうな時に枕元で命は永遠であるとは歌わないだろうという。天の原とは壱岐島の北端にある地名である。那の津(博多の古名)から出港し朝鮮半島に向かう途中、必ず壱岐島の北端をとおり、対馬から朝鮮半島方面または中国方面に向かうことになる。または日本に帰化するときはその逆を航海する。壱岐の先端から「ふりさけ見れば」天足らしたり、即ち長垂山が見えることだ。ニニギノミコトの上陸した聖地は永遠であると歌っているのである。


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図1 白村江への道 途中壱岐島がありその北端に天の原がある。

 当初の歌に戻る。明州における別離の宴に際し、仲麻呂は日本出発の際、上の航路を通ったのを思い出したのであろう。倭姫王と伝えられる歌を知っていたのであろう。天の原を通った際、ふりさけ見たものは春日なる三笠の山といわれる太宰府の東方、春日の地にある、宝満山(通称三笠山)だった。この航路は昔から何千何万の人々が通ったことであろうか。各々の人々が深い感慨をもって通ったことであろう。百済から敵の迫害を逃れ、故国を捨てて異郷の地に来た人々の不安と長い航海を終える安心。白村江に向かった2万、3万の防人が、家族を故郷をしのび、おそらく最後の光景でなるであろう、故国の最後の姿を目に焼き付けたことであろう。そしてほとんど白村江の海の藻屑と消えた。仲麻呂はこれらの人々と同じ思いを、偲びそして自分の今後の身の上を思ったのであろう。自分は懐かしい故郷を再度見ることができるであろうか。


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 図2 九州福岡太宰府の東、春日市にある宝満山

 このように解釈すれば、この歌はまったく違った意味を持つことになる。何よりも仲麻呂の万感の思いがこもっている。だいたい、奈良の春日山は標高297m、春日山原始林の花山が498m、背景にさらに高円山が標高432mあり、三笠の山は高円山の山影に沈み月が昇るのはみることが出来ない。むしろ高円山にいでし月というべき光景である。何よりも海の上に月が出たはずなのに、海など奈良にはあるはずがないのである。④で述べたごとく題詞と本歌を同時に読むと、とんでもない間違いを起こすのを、気をつけなければならない。過去伝えられる本歌にたいし、後世伝聞に従って異なる人が注釈を書くと、歌そのものの真意が消え去ってしまう。これは万葉集が先に述べた経緯をたどったための過ちで、仲麻呂の歌も古今集であるが、本来万葉集に載るべき時代の歌であり、紀貫之がこのような注釈を書いたものだから、後世すっかりあやまって伝えられた。
 九州王朝説は上に限らず、壮大な体系をもっており、必ずしも全部信用できないし、過去の教育、教科書とかなり異なるため、にわかに信じがたい。大体話しが部分的で、では全体の歴史体系がどのようになっているのか、となると、もうひとつ説得力がない。

しかしすべて創作であるかといえば、納得できることも多いのである。

 

 

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志貴皇子の憂愁

志貴皇子の憂愁

天智天皇、天武天皇の時代の皇子達は何故か魅力的な皇子が多い。今回は志貴皇子を取り上げる。
 志貴皇子は天智天皇の第七皇子である。桓武天皇の系図を見ていただきたい(桓武天皇系図)。天智天皇と白壁王(光仁天皇)の間に〇印がついているが、これが志貴皇子である。皇子の生誕年はわからない。しかし、天武8年(679、吉野の盟約)には、20歳を越えていたと推測でき、すぐ次の兄の川嶋皇子が657年生まれであるから、658年から660年の間にくると思って間違いはないだろう。明日香にあった斉明天皇の「後岡本宮」で生誕した。だが、天智天皇の大津宮への遷都にしたがって、少年時代を琵琶湖のほとりで送ることになる。そして、人生を一変させたであろう673年の壬申の乱で、時代は天智から天武の世となり、天智の皇子である志貴皇子の微妙な立場が想像される。それは志貴の青春期の入り口にあたる。志貴は万葉集に6首の歌をのこした。いずれも秀歌で万葉を代表する歌人とも伝えられている。

 次の歌はおそらく近江朝の頃の歌とおもわれる。
    皇子の懽(よろこび)の御歌一首
    「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」 (巻8─1422)
           ◇垂水 高い所から流れ落ちる水。滝。

 672年壬申の乱が始まり、天武天皇が弘文天皇軍を破り都を飛鳥浄御原宮においた。そして、679年天武8年5月に、天武は皇后と6人の皇子を伴い吉野に行幸する。壬申の乱の起点となった思い出の地で、皇子たちに将来の協力を誓わせる。天武には腹違いの多くの皇子たちがいたが、この時は、天智系も含めて、成人した皇子たちが集ったらしい。草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、志貴皇子という序列で「書紀」には出てくる。河嶋も志貴と同じく天智系である。「書紀」には、草壁が一番に誓いの言葉を述べて、後に諸皇子たちが続き、天皇が襟を開いて6人を抱いたとある。

 686年、天武天皇が崩御し持統天皇が皇位についた。志貴の身辺は急に慌ただしくなってきた。天武天皇が健在の間は皇位の継承問題は起きなかったが、草壁皇子が皇太子についてから、持統天皇の恐怖政治がはじまった。草壁皇子は病弱でいかにも弱々しい。それに較べて大津皇子は人格、体力とも天武に似て誰の眼にも皇位にふさわしい。天武も大津の将来に期待をいだいていたらしい。出生も母が大田皇女で持統と姉妹の間であり遜色ない。大田皇女は早世したのが大津には不幸であった。持統は何が何でも天武と持統の子孫に皇統を継がせたかった。草壁の次はその子5歳の珂瑠皇子(後の文武天皇)にする。やがて持統の毒牙が大津にふりかかる。河嶋皇子の密告により大津の死が宣告される。大津が謀反の行動を起こしたか持統の陰謀か、永遠の謎である。ただ当時の権力者は自分の野望のため、多くの人々を抹殺してきた。権力者のライバルが常に生命をおびやかされる。おそらく皇子たちは恐怖にふるえあがったであろう。志貴は天智系でかつ卑賎の采女の子であるため皇位の可能性はない。しかし、いつ毒牙が向かうかわからない。これ以来、自分の立場に十分な配慮をはらったのであろう。自分の才能を歌にむかわせたのかも知れない。

 やがて持統は藤原京遷都を計画し、694年遷都した。

    明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌
     「采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 (巻1-51)

 慶雲三年は706年である。文武天皇が難波の都に行幸したときの歌である。

    慶雲三年丙午(ひのえうま)、難波宮に幸(いでま)す時、志貴皇子の作らす歌
     「葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ」 巻1-64)

【語釈】◇葦辺ゆく 葦のほとりを泳いでゆく。◇羽がひ 背中にたたんだ両翼の交わるところ。◇大和 原文は「倭」。今の奈良県にあたる。

 しかしこの天武と持統の血筋の男子は短命に生まれつき、皇統の維持のために無理に無理をかさねた。このため、二人の女帝を生む結果となる。元明天皇、元正天皇である。この二人は男子天皇のつなぎとして擁立された。やっと聖武で安定かと思われたが、またまた、男子にめぐまれず、孝謙天皇を擁立することになる。この女帝ははじめから天皇になるべく、皇太子から皇位にのぼりつめ、結果は皇統が絶えることになる。ポスト称徳天皇(考謙の重祚(ちょうそ))をめぐり更なる後継問題が連続した。この背後には藤原不比等の野心があった(平城京遷都 参照)。当時の政治はほぼ藤原不比等の手の内にあった。藤原氏に刃向かうものは命の保障はない。

    志貴皇子の御歌一首
     「むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも」 (巻3-267)

【通釈】むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。

 平城京での志貴皇子は高円山の麓に住所をかまえた。高円山にはむささびがたくさんいたという。権力に抗し没落した皇子が沢山おり、その末路をいたんだであろう。自分への戒めとしたのかも知れない。
 
    志貴皇子の御歌一首
     「神なびの 石瀬の杜の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ」 (巻8-1466)

◇神なび 「神の坐(ま)すところ」を意味する語。◇石瀬の杜 不詳。奈良県生駒郡斑鳩町の龍田地方の森、あるいは同町の車瀬の森(龍田神社の南)、あるいは同郡三郷町の大和川北岸の森かという。◇毛無の岡 不詳。志貴皇子の住まいの近くの岡であろう。

    志貴皇子の御歌一首
     「大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも」 (巻4-513)
◇大原 奈良県高市郡明日香村。◇いち柴 原文は「市柴」。「いつしば」とも。「いち」は「いつ」と同じく勢いの盛んなことを表わす語。
 
 これらの歌は隠忍自重する心境を語ったものか、捲土重来を期した歌か。

689年 志貴皇子は撰善言司に任命された。善言とは為政者の倫理の指針となるような教訓を集めた書物で幼少の文部天皇の教育教材の編纂役である。
703年 大宝3年、持統天皇の殯宮のあと、志貴皇子は造御竈長官に任命され、火葬設備の造営をつかさどった。持統は天皇としては初めて荼毘にふされ、天武が眠る明日香の大内山稜に合葬された。奈良時代の貴族の間では火葬がブームとなったが、持統の火葬はその走りである。この功績によるのか、翌年には四品に叙され、封100戸を増益されている。(品位とは親王の序列で、一品、二品、三品、四品に序列されていた。)
707年 慶雲4年、文武天皇の崩御に際して、志貴皇子は「殯宮のことに供奉」している。 政治的な派手な動きはないが、地味ながら重要な役を着実にこなして、時の主流派に貢献するという印象がある。自分の立場をよくわきまえて、賢明に時流に処していった人であっただろうか。
708年 三品に昇進した
709年 白壁王(のち光仁天皇)生まれる。
715年 二品に昇進
716年 死亡
 以上の生涯を送っている。白壁王は志貴皇子の50歳頃の子である。この頃は平城京遷都の直前の頃である。そして
死亡の時期は58歳~60歳、光明子が聖武の皇太子妃になる藤原氏の絶頂の頃であった。これ以降白壁王の時代となるが、父志貴皇子以上に呼吸のつまりそうな時代だったであろう。だがこの親子は長寿で天命を全うした。そのおかげであろう、やがて光仁天皇となり、桓武に時代をひきつぐことができたのである。(桓武天皇と怨霊参照)


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志貴皇子の住んでいた高円山

 志貴皇子の葬送は高円山で行われた。万葉後期の代表歌人笠金村は挽歌を贈った。

 霊亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手挟(たばさ)み 立ち向(むか)ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼く 野火(のび)と見るまで 燃ゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道来る人の 泣く涙(なみた) 小雨(こさめ)に降れば 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)ひづちて 立ち留まり 我に語らく 何しかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の 御駕(いでまし)の 手火(たひ)の光ぞ ここだ照りたる(万2-230)

 短歌二首

  高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(万2-231)

  御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに(万2-232)

 下の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。或本の歌に曰く

  高円の 野辺の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲はむ(万2-233)

御笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに(万2-234)

【通釈】[長歌] 梓弓を手に取り持って、勇士たちが、狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かう的――その名も高円山に、春野を焼く野火かと見える程盛んに燃える火を、何故と問うと、道を歩いて来る人の、泣く涙が小雨のように降るので、真白な喪の服が濡れていて――立ち止まり、私に語ることには、「どうしてまた、そんなことをお尋ねになる。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛い。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです」。
[短歌一] 高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散っているのだろうか。見る人もなしに。
[短歌二] 御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。

 

 

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桓武天皇の怨霊

桓武天皇の怨霊
 系図をみていただきたい(別図拡大図)。天智天皇系と天武天皇系に大きく分かれ、天武系が平城京時代を制し特に聖武天皇時代最盛期をむかえる。聖武天皇と光明皇后の間に基王と阿倍内親王がいたが、基王は生後まもなく亡くなり、以降男子に恵まれなかった。やがて阿倍内親王が皇位につき第46代考謙天皇(のち48代称徳天皇)になるが結婚することが出来ず、生涯独身を通したため、後継者ができなかった。聖武天皇には県犬養広刀自の間に井上内親王(いのえ(いがみ)ないしんのう)がおり、称徳天皇亡きあと最後の聖武天皇の実子であり、白壁王と結婚し他戸(おさかべ)親王を生む。他戸親王は聖武天皇のながれを汲む最後の男子となり且つ天智天皇系の血をもうけつぐことになった。白壁王は天智天皇の第7皇子・志貴皇子の第6子でのち49代光仁天皇となるのであるが、ほかに妃に渡来系高野新笠がおり、山部親王(のち50代桓武天皇)と早良(さわら)親王をもうけた。そして山部親王には実子安殿(あで)親王(のち51代平城天皇)があった。この構図が以下の物語に大変重要である。

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 白壁王は744年、36歳で聖武天皇の皇女・井上内親王を妃としたことからにわかに昇進を速め、759年、従三位、762年、中納言に任ぜられる。764年には恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、766年には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたといわれている。

 称徳天皇が後任を決めずに崩御し聖武天皇の子孫が絶えた。そのため称徳天皇の後半は次期皇位につき血なまぐさい事件があい次いだ。称徳天皇の即位直後から子孫の断絶を見越し、その皇嗣問題では、天武系の文室浄三を推す吉備真備と藤原百川ら藤原氏の推す白壁王に分かれていたが、771年称徳天皇が崩御すると、途端にこの二派は暗闘をはじめた。結果的に白壁王派が皇位を譲り受け、ここに天武系の天皇に代わり天智天皇系の49代光仁天皇が誕生した。この時白壁王63歳、山部王35歳、早良王22歳、井上内親王54歳、他戸王11歳であった。

 一方、井上内親王は717年生まれ、聖武天皇の親王ということで幼少で伊勢の斎王に選ばれ、744年斎王を解かれてからまもなく白壁王に嫁いだ。この時、すでに30歳になっていた。37歳の高齢で酒人内親王(さかひとないしんのう)を生み、さらに761年45歳で他戸親王を出産した。他戸親王は女系とはいえ、唯一の聖武天皇系の男子ということが光仁天皇即位の決め手であったとされる。

 光仁天皇は井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして大逆の罪により皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃した。井上内親王が何ゆえすでに天皇であり高齢でもある光仁天皇を呪詛するのか理由が分からない。一説では皇太子他戸親王を早く天皇にしなければ息子の山部親王が何をするかわからないといった焦りからの行為であるとの説もある。しかし井上内親王の不安どうり、事がはこんだ。翌773年1月には山部親王が立太子し、10月、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の邸に幽閉され、同6年4月、幽閉先で他戸親王と共に薨じた。一説によれば殺害といわれている。これによって聖武天皇の皇統は完全に絶えた。

 早良親王は白壁王の時代、将来展望がないまま東大寺に入って修行をしたが、光仁天皇即位の際、還俗し桓武天皇即位とともに皇太子となった。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。本来光仁天皇は天皇位はおろか、明日をも知れない不安定な立場にあり、次男の早良王を東大寺に僧侶として一生を送らせるはずだった。しかし、思いがけず皇位がころがりこみ、自分の高齢を思い、東大寺の後ろ盾を頼りにした処置であり親心であった。

 桓武天皇は即位するや、早速長岡京遷都を計画した。天皇は天武天皇系の平城京を極端に嫌い、光仁天皇から始まる新王朝にふさわしい帝都を望んだ。天武天皇と天智天皇とは兄弟ではないというのは、この頃から公知の事実だったのであろう。
 「続日本紀」で桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが残っており、「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」という桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は桂川、加茂川、宇治川、木津川が合流し淀川を経て大阪湾に注ぐ、水上交通の要所であったことから交通の便をかわれた。また秦氏の所領であったことも、藤原種継につながる縁戚関係から選ばれたとおもわれる。784年早速藤原種継を造宮長官に任じ翌年新春、長岡京で祝賀をおこなっている。
 それに先立って、遷都の話がでるや、東大寺、西大寺等、南都の大寺院は反対に動き、早良親王に接近し、遷都阻止に動いた形跡がある。785年、種継事件がおこる。遷都後間もない785年、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。桓武天皇は激怒し犯人探索を命じ、暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末、大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に既に死亡していた大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった早良親王にまで及び、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。この前後の出来事を年代風にしるすと

781 桓武天皇即位
782 氷川川継、乱をおこす(天武、新田部系塩焼王の子)
784 長岡京着工
785 造宮長官藤原種継暗殺
   皇太子早良親王廃され流刑地の途上憤死
789 蝦夷との戦いに大敗
   平安新京着工開始
790 天然痘流行
792 辺境をのぞき正規軍を廃し健児をおく
   日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病
   原因を探るために占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、御霊を鎮める儀式を行う
都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となる
794 平安京遷都 

 このようなことが連続して起こり、桓武天皇は平安京造営に着手することになる。長岡京も含め、平安遷都は理由が二つといわれていた。天武天皇系との断絶を機に人心一新をはかること。南都仏教から距離をおくこと。そして長岡京からの移転は、新京での忌まわしい事件が連続したことである。たしかに洪水対策はこの時代、治水技術が幼稚で、事前調査不足があったようである。水害はさけられなかった。しかし真の理由は別のところにあった。梅原猛氏や井沢元彦氏の提唱する、怨霊説である。上にあげた理由は納得できるものであるが、時の権力者の心を動かした動機となるものは心の問題であるという。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。

 


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五条市御霊神社

 安殿(あで)親王の立太子が完了し一段落してのもつかのま、桓武天皇の身辺に不吉な事件がつずく。早良親王が死んで3年後、夫人の藤原旅子が死に、実母高野新笠、皇后藤原乙牟漏も相次いで死んだ。蝦夷には大敗し、早良親王を抹殺してまでしてつけた安殿親王は病弱であった。陰陽師の占いでは怨霊による祟りであるとの結果であった。怨霊とか祟りというものは、心理的なもので、歴史にはなじまないとされていたが、上の二人は直接的な動機に怨霊をとりあげた。実際、桓武天皇は平安遷都以降、あらゆる手段を使い早良親王の怨霊しずめをおこなっている。五条には御霊神社をつくり井上内親王、他戸親王、早良親王を合祀している。京都に上下御霊神社があり「八所御霊」を合祀している。実際桓武天皇がこれらの人々の祟りを恐れ、神社仏閣に怨霊鎮めに躍起になったことを思うと、その死の真因は桓武天皇側にあると見るのが必然であろう。

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平城京遷都

平城京遷都
  万葉集に次ぎの一句が残されている。題書のとおり太上天皇は元明天皇である。長屋の原は現在天理市長柄であろう。すると、平城京遷都の旅は上つ道を通ったことになる。

和銅3年(710)庚寅の春2月、藤原京より寧楽宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めてはるかに古郷を望みて作らす歌 一書に云はく太上天皇の御製

  飛ぶ鳥の 飛鳥の里を 置きて去なば 君があたりに 見えずかもあらむ

 43代元明天皇は考えていた。今藤原京から平城京への遷都の途上である。なぜ平城京に移らなければならないのか。時は710年、いとしい夫草壁皇子に先立たれ、陵墓を明日香に置いたまま、亡き夫と離れて暮らさねばならない。気のすすまない移転である。考えてみれば今から21年前だ、藤原不比等が直広肆(従五位下)判事に任じられてはじめて宮中に上がってから、藤原鎌足の子ということもあり、ずいぶんと強引な態度が見えていた。690年藤原京の着工が開始され694年には明日香から藤原京に移ってきた。藤原京に移っても工事はまだつずいていた。704年一応都は完成ということにしたが、あちこち不備なところが目立った。なのに707年、都を奈良にうつすという詔をださなければならなくなった。この年文武天皇が崩御された。文武天皇は自分の子である。子に先立たれた母としては大変つらい思いであったが、悲しむ暇もなく自分が天皇になろうとは。どうしてこんなことになったのであろうか。
 藤原不比等の策略に違いない。不比等にとって文武の死は思いがけず、あまりに早すぎた。もうしばらく皇位にいて、やがて文武の子、首皇子(後の聖武天皇)に皇位を譲る考えだった。そのために不比等の娘宮子を文部の妃に入れ、首皇子をもうけた。しかしまだ、首皇子は9歳にしかならない。皇位につくにはまだはやすぎる。首皇子につなぐのにどうすればよいか。そうだ、草壁の皇后元明を皇位につけよう。彼女なら天智天皇の娘であるし、女性天皇は何人も先例がある。不比等はここではっきりと首皇子に焦点をあて、この孫のために万難を排しても天皇につけねばならない。このための戦略に取り組んだ。  
 だけど、何故平城京に都をうつさなければならないのか。自分の父天智天皇が白村江で唐にやぶれ、命からがら明日香にもどり、身の危険から近江に都をうつした。しかし壬申の乱により自分の伯父天武天皇と自分の義姉持統天皇夫婦が心血そそいで構想した藤原京である。従来明日香の都は天皇の私邸のごときもので、強敵唐や新羅に対抗するためにも、国威を発揚するためにも、私邸ではなく日本国の首都が必要だと純粋に考えた本格的な都である。自分の夫草壁皇子も、はれて新都の主になるはずであったのだが、はからずも替わりに自分が新都の主になった。藤原京は南東方面が高く、北西方面に低く、あたりの川はすべて北西の大和川に注ぐ。したがって地下水の流れが都に流れ込むなどと、下水工事の発達してない当時の欠陥を、不比等親派がいいたてるが、そのようなことは、今の権力をもってすれば、どうにでも出来ることなのだ。もう一つ、藤原京は南に狭く、発展性がないと。そのようなことは、前もってわかっていたことである。


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複雑に入り組んだ血統図

 平城京が出来上がるにつれ、元明は不比等の意図を悟った。平城京を見てみよ。これは藤原家の都以外の何ものでもない。内裏こそ中央北側にあるが、東端二条から五条まで都より高いところに外京と称し藤原家の所領で都を見下ろしているのである。東端に藤原氏の氏神興福寺を配し、その南は元興寺で蘇我氏を押さえつけている。そしてその中に東宮がある。東宮とは皇太子の居館である。藤原氏は皇太子をも取り込んだ。皇太子にやがて藤原の娘を嫁がせ、皇位につけ、その子がまた皇位を継ぐ。こうすれば天皇家は代々藤原の血統でつながれる。取り敢えず今のところ不比等の思惑とおりに事がすすんでいる。


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平城京遷都

 遷都から10年経った。そして翌年、元明は死の床にいた。この10年あまりを振り返った。714年元明は退位した。不比等の豪腕にほとほと疲れた。次から次へと出てくる不比等の要求に反抗するすべもなくすでに限界だった。退位を申し出て、次期皇位は元明の娘で文部の姉である氷高内親王に白羽の矢があったった。44代元正天皇である。首皇子は尚若く、もうしばらくピンチヒッターに繋いでもらわなければならない。元正に目をつけたのも不比等であった。716年不比等の娘光明子もすでに首皇子と同じ15歳である。そろそろ結婚させよう。これで首皇子は自分の孫、皇后になるはずの光明子は自分の娘である。あとは天皇、皇后になるだけだ。そして720年藤原不比等は死んだ。自分の野望の限りを尽くしての死であった。そして721年元明上皇も死亡した。

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大伴家持とその時代

大伴家持とその時代

宮廷  天皇 権力者44
元正 げんしょう 715~724  718 大伴家持生まれる
聖武 しょうむ 724~749   727 旅人大宰府に赴任
                 728 山上憶良と親交
                 729 長屋王の変
                 730 大宰府で梅花宴、旅人家持帰郷 万葉巻5
                 731 旅人死68歳
                 732 坂上大嬢・笠女郎
                 736 秋歌4首 万葉巻8
                 738 独り天漢を仰ぎ述懐の歌 万葉巻17
                 739 亡妾悲傷歌 万葉巻3
                 740 東北行幸に従駕、歌を詠む 万葉巻6
                 742 橘諸兄宅で奈良麻呂主催の宴 万葉巻8
                 743 恭仁京賛歌 万葉巻6
                 744 安積親王挽歌 万葉巻3
                 745 従5位下
                 746 7/7越中に赴任、弟書持死哀傷歌 万葉巻17
孝謙 こうけん 749~758   752 8/5帰京、少納言に任ず
                 754 兵部小輔を拝命山陰道巡察使に任命
                 757 兵部大輔に昇進
                 758 因幡守に左遷
淳仁 じゅんにん 758~764 762 信部大輔に任ず、因幡より帰京
                 763 恵美押勝暗殺計画発覚
称徳しょうとく764~770   764 薩摩守に左遷
  孝謙重祚         767 太宰小弐に任ず
                 770 民部少輔任ず、大宰府より帰京
                    左中弁兼中務大輔、正五位に昇叙
光仁 こうにん 770~781   771 従四位下に昇叙
                 772 左中弁兼式部員外大輔に任ず
                 774 相模守、左京太夫兼上総守
                 775 衛門督
                 776 伊勢守
                 777 従四位上に昇叙
                 778 正四位下に昇叙
                 780 参議、右大弁
桓武 かんむ 781~806   781 正四位上に昇叙、春宮太夫
                   従三位公卿に列する
                 783 中納言に就任
                 785 陸奥国にて死去
                    この時中納言従三位春宮太夫兼時節征東将軍
                 806 従三位に復位、永主ら隠岐より帰京

 大伴家持が生まれたのは養老二年(718)で平城京である。718年といえば平城京遷都が710年で、いまだ都が整わない8年後のことである。そして亡くなったのは785年、その前年(784)に長岡京遷都があり、まさに奈良平城京とともに生まれ死んだ人生だった。3歳のとき、父大伴旅人が征隼人時節大将軍として単身九州に赴任し、10才の時太宰師として大宰府に就任した。 その時を機に家持と2歳下の弟の書持を妻(大伴郎女)と共に帯同した。旅人としては大伴家の伝統と名誉を子供たちに伝える必要を感じていたのである。しかし、到着一ヶ月後に大伴郎女は病気が急に悪くなり、まもなく死んだ。家持にとって近親者の死は遭遇した最初のことであり、旅人は深く悲しんだ。平素から酒好きの父はさらに深酒がかさなった。
  験(しるし)なき ものを思わずば 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
  生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
生きている間は楽しくありたいと旅人はいうが、悲しそうな父の姿はいつまでも、家持の記憶に残った。
 
 大伴家は名門の家柄である。720年には舎人親王らによる「日本書紀」が著された。家持が生まれてから二年後である。そこには、天孫降臨の際、大伴氏の遠祖天忍日命は武装して先導されたと記されている。神武天皇が東征された時も遠祖日臣命(道臣命)が大来目を率いて大和への道を先導したとある。雄略天皇の大連であった大伴室屋は靫負(ゆげい)三千人を領して宮廷の守衛に当たったといい、以降大伴氏は久米部、佐伯部、靫負などを率いる指導者の地位についた。 室屋の孫、大伴金村は朝鮮半島との外交交渉にも活躍した。継体天皇の折、任那四県に対する支配を容認する決定を下している。のち、欽明天皇の時代その措置を批判されて失脚し、政権の主導権は蘇我氏に移った。
大化元年、蘇我氏が倒されて新政府ができると、金村の孫・長徳が右大臣になり政界に復した。さらに、先の壬申の乱の折には、馬来田、吹負が大海人皇子に味方し近江朝廷方の軍と戦って大きな功績をたてた。
 旅人は子供たちにこれらを聞かせ、家持には家の再興を、書持には学者の道に行くことを願った。しかし大伴郎女の死後旅人の不便もさることながら、もっとも困ったのは二人の子供の教育問題だった。あれこれ悩んだ結果、旅人の異母妹の坂上郎女を大宰府に呼び寄せることとした。坂上郎女は前夫が何人かおり子供が二人いた。大伴坂上大嬢と大伴坂上二嬢である。このうち大伴坂上大嬢が後、家持の妻となるが、当初は母と二人の女性が加わって、はなやいだ生活を送った。坂上郎女も名門大伴家の後継者を大切に育てた。さらに彼女は当代随一の女流歌人で、家持には大いに影響を与えた。もう一人、旅人の友人で九州に来ていた筑前守、山上憶良を家持に引き合わせた。後世「山柿の門」といわれ家持に大きな影響を与えた歌人に山上憶良と柿本人麻呂がいた。「山」は山辺赤人の説もあるが、おそらく山上憶良であったと思われる。


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朱雀門

 731年、大納言に昇進し奈良に帰ってまもなく、旅人は78歳で死んだ。奈良は佐保の地に大伴家の住宅があった。父に託されて武門の道をゆくべく期待され、本人もそのつもりで武芸に励んだが、和歌の道にはとかく関心があった。坂上郎女をしたって多くの女性が家に訪れては歌会を開いた。その中で万葉集に収められている、女性からの歌が数多く残されている。
笠女郎、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、阿部女郎、平群氏女郎などで家持宛に来た歌に返歌をした者、無視された者、数多くあるのである。特に笠女郎は万葉の代表的女流歌人であるが彼女から24首の歌を贈られているが、わずか2首しか返事を出していない。かなり華やかな女性関係であったようだ。
   
 22才のころ家持には二つの悲劇が起こった。一つは佐伯末麻呂との親交の中、娘の阿耶女と出会い、恋におちた。やがて子をなし、佐紀郎女となずけた。この阿耶女が死んだ。悲嘆した家持は「亡妾悲傷歌」を万葉集に残した。もうひとつは安積皇子の死である。安積皇子の死は少し複雑である。
 当時聖武天皇には県犬養広刀自の間に安積皇子がおり、おりからの実力者橘諸兄がいた。諸兄には息子の橘奈良麻呂がおり、家持とは親交があったが、安積皇子の天皇即位を画策していた。一方もう一人藤原不比等の娘、光明子がおり藤原家の期待をになっていた。光明子自身も藤原氏の期待に答え、藤原氏よりに行動した。当時、藤原四兄弟が相次いで天然痘にたおれ、聖徳太子の祟りと恐れられ、法隆寺の再興を計画した頃である。藤原氏の実力者は藤原仲麻呂で、聖武の皇太子に光明子の娘安倍内親王をおした。ここに両派の葛藤があった。当初、長屋王の息子黄文王が皇太子候補であったが、密告により捕らえられ、拷問死している。聖武天皇が難波宮に行幸し、安積皇子も随行した。難波京と平城京の最短、暗峠の近く、桜井の頓宮で急病にかかり急ぎ恭仁京に還ったが、二日後に急死した。帰還の理由は脚の病ということであった。このことが後世大問題となって「橘奈良麻呂の乱」となる。

746年家持は越中守に任じられ富山県高岡に赴任した。これは橘諸兄から伝達された。当時全国約60の「国」があり大、上、中、下に4区分されており、越中は上国とされていた。当時は地方分権で国司は大きな権限が与えられており、中央政府にとって当時まだ東国は未開地で、競って地方に勢力を拡大していた。従って家持の越中国赴任は大伴家の勢力拡張と出世の糸口と考えられはりきっていた。越中時代は「富山県高岡市の二上山」を読んでいただきたい。ただし、弟の書持がこの年没した。
家持は弟の死を悲しみ、その人となりを「花草花樹を愛でて、多く寝院の庭に植う」と述懐した(同17-3957)。

橘諸兄、奈良麻呂父子との親交は万葉集の編纂につながっていった。橘諸兄は『万葉集』の撰者の一人といわれている。これは、『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」とあり、これが元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にもはいったことが、一定の信憑性をもつものである。のちに、仙覚は橘、大伴家持の2人共撰説を唱えるにいたった。

 家持は783年中納言に就任後、785年陸奥国にて死去するまで尚、30年を生きた。年表に見るごとく全国各地に赴任をした。この間藤原氏の全盛時代でもあり、家持は体制側につくことはなかった。これが、家持の出世に大きく影響した。この間出世と左遷をくりかえし、従三位公卿どまりとなった。785年家持が死んでなお、事件にまきこまれる。この時桓武天皇で、天智天皇、志貴皇子、白壁王(光仁天皇)と代を次ぎ桓武にいたる。おりから藤原種継の勢力の伸張期であり、天皇の寵愛を一身に受け、表向きはすべて種継に任した。桓武天皇は代々天武系の天皇の都である平城京を嫌い、遷都を考えていた。種継は天皇の意を受け、長岡京遷都を画策した。長岡京は交通の要地であることと、種継の母が秦氏の出で、その根拠地であることが長岡遷都の理由である。桓武天皇には弟の早良親王がおり、立太子していたが、早良親王には何の相談もしていなかった。そのため桓武と早良親王との中は円満ではなく、種継とも疎遠にしていた。やがて種継が暗殺された。がこれが大事件となった。激怒した桓武天皇はすぐ犯人捜査を命じ、実行犯の二人の兵士を尋問の上、即刻死刑に処した。そして事件の首謀者として大伴継人(旅人の弟田主の孫)、大伴竹良(大伴一族)、大伴家持があげられた。家持は死して一月の後のことあった。

 藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。その後、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
家持の死について「続日本紀」には「中納言、従三位の大伴家持が死んだ」と記されている。律令制度では人の死の表記として上から順に崩、薨、卒、死の四種類である。家持は従三位だったから「中納言、従三位の大伴家持が薨じた」とあるべきだが、身分の除名処分をうけて死んだと表記されているとおもわれる。ただし806年死から20年後に名誉を回復し元の従三位に復帰した。

大伴氏は伝統ある武門の出である。新興の藤原氏とは家格が違う。しかし、権勢は藤原氏にあった。大伴氏が藤原氏の側につくのを潔しとしなかったのであろう。彼は父の遺言もあり、大伴の家名の維持につとめ必死であったが、常に、大友氏凋落の危機を感じていた。彼の歌は常にどこかもの悲しく、根底に哀感をひめている。栄光の過去があるからこそ、現実の危機を常に感じている。

 忍坂(おさか)の 大室屋に 人多(さわ)に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも 
  みつみつし 来目の子等が 頭椎(くぶつつ)い 石椎い持ち 撃ちてし止まん
 
 海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草蒸す屍 大君の 辺にこそ死なめ のどには死なじ

これは久米歌である。神武天皇に付き従い大和平定物語に組こまれた宮廷歌謡である。代々大伴氏が歌い継いだ栄光の歌である。

 
 さて応天門の変は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。応天門は平安京の朱雀門の内側、朝堂殿の南側にあり大伴氏が建立しこの門を守護するのが任務となる栄光の門である。この応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。

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新薬師寺の現地説明会

新薬師寺の現地説明会

 奈良版の新聞に大きく報じられた。新薬師寺の金堂が発掘されたのだ。早速現地説明会があるというので聞きに行った。場所は新薬師寺の150メートル西側で現在奈良教育大学の東端である。奈良教育大学は考古学に熱心で学者も多い。国立大学だから保存にも力を注ぐと思われる。
 新薬師寺は747年天平19年、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が建立されたと伝えられている。当時東大寺と比肩できる、七堂伽藍と東西弐基の塔があり、正倉院に残る絵地図「東大寺山堺四至図(さんがいししず)」(756年)にも、金堂にあたる「新薬師寺堂」が大仏殿より横長で描かれており、これが裏づけられた形だ。しかし、現在は本堂(東西22.7メートル、南北14.9メートル)が残るだけ。他の建物は780(宝亀11)年の落雷や962(応和2)年の台風で失われたとされ、現在の薬師如来は平安時代になって再建された。同時に近くの岩淵寺より十二神像を移し七堂伽藍の内災害から免れた食堂を本堂に改修し、現在の姿になったようだ。 
 鎌倉時代に入って明恵上人が南門 東門 鐘楼 地蔵堂を新に建立し不明だった寺域を現在の区画に確定した。これによって金堂は現在の寺域からはずれたのである。

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         金堂の発掘現場

現地説明会は2008/10/15におこなわれた。駐車場が結構遠くてさらに教育大学に入って距離があり、一番奥までゆくと多少つかれた。現場はいつもの通りあちこちにビニールをひいてあり、発掘跡の柱穴が数十個みられた。柱間(はしらま)が東西11間(54メートル)、南北6間(27メートル)と推定されており、東大寺の大仏殿と同じ「壇上積(だんじょうづみ)基壇」の一部が見つかった。ここが金堂だったとすれば講堂や二つの塔蹟の位置など専門家は想定しているだろう。私は以前新薬師寺に来たとき、薬師如来と十二神将はどのようにして災害をまぬがれ、現在の位置にきたのか不思議だった。燃え盛る火災の中を僧達が必死に運び出す光景を勝手に想像していた。現実は上に書いたとおりである。

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        新薬師寺の本堂

 私は最近再度新薬師寺を訪ずれた。いつも休日を避けてくるので人もまばらで、いつもの静寂さがよい。南門から入って国宝に指定されている本堂の姿を写真におさめた。本堂の西の入口から中にはいる。暗くて目がなれるまで、あたりが見えない。しばらくすると目がなれて、2~3人の見学者がいるのが確認できた。薬師如来と十二神将がいつものとおり美しい姿で立っていた。薬師如来は文字通り薬、医者の神で薬師寺の天武天皇の病気平癒を願った持統天皇と同じ思いで光明皇后は祈ったのであろう。十二神将は自分の役目として薬師如来の十二の方向を分担して、守護している。一つ一つが素晴らしい躍動美で各々国宝に指定されている。新春には初詣の善男善女が各々自分の干支の神様にお祈りするという。ただ私の干支神像である辰の神像 波夷羅(ハイラ)のみ盗難にあったとかで昭和のレプリカがおかれ、国宝から除外されている。中の売店におじさんが手持ち無沙汰でいたので少し話をした。おおよそ記述した内容であった。

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玉骨生家、修復開館へ

玉骨生家、修復開館へ-11月21日には俳句大会【五條】  (2008.9.20 奈良新聞)

11月11日の全面公開を待藤岡家住宅。右が離れ座敷=五條市近内町
 戦後の大和俳壇の重鎮、藤岡玉骨(本名・長和、明治22年―昭和41年)の生家で、五條市近内町の登録有形文化財「藤岡家住宅」が2年8カ月の年月をかけて修復され、11月11日から全館公開される。開館を記念して、同月21日には「藤岡玉骨記念俳句大会」(奈良新聞社など後援)も行われる。

 藤岡家は江戸時代からの庄屋で、「大坂屋」の屋号で薬や染物、両替なども商っていた。江戸時代の建造物の母屋と離れ座敷、別座敷、内蔵、土塀のほか明治時代に増築された書斎や大広間などが復元された。

 玉骨はこの家に生まれ、東京大学法学部からエリート官僚の道を進んだ。一方で、第三高校時代に与謝野鉄幹に出会って俳号・玉骨を受け、その後も文芸雑誌を発行するなど高浜虚子ら多くの文人と交わり、文芸活動を続けた。「ホトトギス」同人。

 昭和20年、うた代夫人とともに生家に戻ったが、夫妻の死後は空き家に。平成10年の台風禍で傷みが激しく解体も考えられたが、玉骨の孫で現当主の藤岡宇太郎さん(茨城県在住)がインターネットを通じて知り得た五條市民に相談。平成16年末に有志市民によって同住宅管理法人「うちのの館」(田中修司理事長)が立ち上がり、修復を決めた宇太郎さんとともに保存と活用へと動き出した。

 平成18年3月に工事着手。昨年春には母屋などが復元され、一部が公開されていた。その後、貴賓の間と呼ばれる離れ座敷の修復や庭園、資料展示スペースとなる蔵などの整備を行い、完成間近となった。

 記念俳句大会には、投句料1000円(二句一組、五條市民は無料)で、誰でも応募できる。当季雑詠(=季節のもの)。締め切りは大会当日の正午。大賞や市長賞、奈良新聞社賞など入選12句を選ぶ。

 大会当日は、島田康寛立命館大学教授の講演「俳句と日本画」がある。会場の都合上、定員は先着50人。大会出席希望者は、所定の投句用紙に記入して申し込む。問い合わせは、うちのの館、電話0747(22)4013。