桓武天皇の怨霊

桓武天皇の怨霊
 系図をみていただきたい(別図拡大図)。天智天皇系と天武天皇系に大きく分かれ、天武系が平城京時代を制し特に聖武天皇時代最盛期をむかえる。聖武天皇と光明皇后の間に基王と阿倍内親王がいたが、基王は生後まもなく亡くなり、以降男子に恵まれなかった。やがて阿倍内親王が皇位につき第46代考謙天皇(のち48代称徳天皇)になるが結婚することが出来ず、生涯独身を通したため、後継者ができなかった。聖武天皇には県犬養広刀自の間に井上内親王(いのえ(いがみ)ないしんのう)がおり、称徳天皇亡きあと最後の聖武天皇の実子であり、白壁王と結婚し他戸(おさかべ)親王を生む。他戸親王は聖武天皇のながれを汲む最後の男子となり且つ天智天皇系の血をもうけつぐことになった。白壁王は天智天皇の第7皇子・志貴皇子の第6子でのち49代光仁天皇となるのであるが、ほかに妃に渡来系高野新笠がおり、山部親王(のち50代桓武天皇)と早良(さわら)親王をもうけた。そして山部親王には実子安殿(あで)親王(のち51代平城天皇)があった。この構図が以下の物語に大変重要である。

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 白壁王は744年、36歳で聖武天皇の皇女・井上内親王を妃としたことからにわかに昇進を速め、759年、従三位、762年、中納言に任ぜられる。764年には恵美押勝の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、766年には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたといわれている。

 称徳天皇が後任を決めずに崩御し聖武天皇の子孫が絶えた。そのため称徳天皇の後半は次期皇位につき血なまぐさい事件があい次いだ。称徳天皇の即位直後から子孫の断絶を見越し、その皇嗣問題では、天武系の文室浄三を推す吉備真備と藤原百川ら藤原氏の推す白壁王に分かれていたが、771年称徳天皇が崩御すると、途端にこの二派は暗闘をはじめた。結果的に白壁王派が皇位を譲り受け、ここに天武系の天皇に代わり天智天皇系の49代光仁天皇が誕生した。この時白壁王63歳、山部王35歳、早良王22歳、井上内親王54歳、他戸王11歳であった。

 一方、井上内親王は717年生まれ、聖武天皇の親王ということで幼少で伊勢の斎王に選ばれ、744年斎王を解かれてからまもなく白壁王に嫁いだ。この時、すでに30歳になっていた。37歳の高齢で酒人内親王(さかひとないしんのう)を生み、さらに761年45歳で他戸親王を出産した。他戸親王は女系とはいえ、唯一の聖武天皇系の男子ということが光仁天皇即位の決め手であったとされる。

 光仁天皇は井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とするが、772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして大逆の罪により皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃した。井上内親王が何ゆえすでに天皇であり高齢でもある光仁天皇を呪詛するのか理由が分からない。一説では皇太子他戸親王を早く天皇にしなければ息子の山部親王が何をするかわからないといった焦りからの行為であるとの説もある。しかし井上内親王の不安どうり、事がはこんだ。翌773年1月には山部親王が立太子し、10月、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の邸に幽閉され、同6年4月、幽閉先で他戸親王と共に薨じた。一説によれば殺害といわれている。これによって聖武天皇の皇統は完全に絶えた。

 早良親王は白壁王の時代、将来展望がないまま東大寺に入って修行をしたが、光仁天皇即位の際、還俗し桓武天皇即位とともに皇太子となった。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。本来光仁天皇は天皇位はおろか、明日をも知れない不安定な立場にあり、次男の早良王を東大寺に僧侶として一生を送らせるはずだった。しかし、思いがけず皇位がころがりこみ、自分の高齢を思い、東大寺の後ろ盾を頼りにした処置であり親心であった。

 桓武天皇は即位するや、早速長岡京遷都を計画した。天皇は天武天皇系の平城京を極端に嫌い、光仁天皇から始まる新王朝にふさわしい帝都を望んだ。天武天皇と天智天皇とは兄弟ではないというのは、この頃から公知の事実だったのであろう。
 「続日本紀」で桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが残っており、「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」という桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は桂川、加茂川、宇治川、木津川が合流し淀川を経て大阪湾に注ぐ、水上交通の要所であったことから交通の便をかわれた。また秦氏の所領であったことも、藤原種継につながる縁戚関係から選ばれたとおもわれる。784年早速藤原種継を造宮長官に任じ翌年新春、長岡京で祝賀をおこなっている。
 それに先立って、遷都の話がでるや、東大寺、西大寺等、南都の大寺院は反対に動き、早良親王に接近し、遷都阻止に動いた形跡がある。785年、種継事件がおこる。遷都後間もない785年、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。桓武天皇は激怒し犯人探索を命じ、暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末、大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて首を斬られた。事件直前の旧暦8月28日に既に死亡していた大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して配流となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太子であった早良親王にまで及び、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、早良が実際に事件にかかわっていたのかどうかは真偽が定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。この前後の出来事を年代風にしるすと

781 桓武天皇即位
782 氷川川継、乱をおこす(天武、新田部系塩焼王の子)
784 長岡京着工
785 造宮長官藤原種継暗殺
   皇太子早良親王廃され流刑地の途上憤死
789 蝦夷との戦いに大敗
   平安新京着工開始
790 天然痘流行
792 辺境をのぞき正規軍を廃し健児をおく
   日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病
   原因を探るために占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、御霊を鎮める儀式を行う
都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となる
794 平安京遷都 

 このようなことが連続して起こり、桓武天皇は平安京造営に着手することになる。長岡京も含め、平安遷都は理由が二つといわれていた。天武天皇系との断絶を機に人心一新をはかること。南都仏教から距離をおくこと。そして長岡京からの移転は、新京での忌まわしい事件が連続したことである。たしかに洪水対策はこの時代、治水技術が幼稚で、事前調査不足があったようである。水害はさけられなかった。しかし真の理由は別のところにあった。梅原猛氏や井沢元彦氏の提唱する、怨霊説である。上にあげた理由は納得できるものであるが、時の権力者の心を動かした動機となるものは心の問題であるという。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。

 


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五条市御霊神社

 安殿(あで)親王の立太子が完了し一段落してのもつかのま、桓武天皇の身辺に不吉な事件がつずく。早良親王が死んで3年後、夫人の藤原旅子が死に、実母高野新笠、皇后藤原乙牟漏も相次いで死んだ。蝦夷には大敗し、早良親王を抹殺してまでしてつけた安殿親王は病弱であった。陰陽師の占いでは怨霊による祟りであるとの結果であった。怨霊とか祟りというものは、心理的なもので、歴史にはなじまないとされていたが、上の二人は直接的な動機に怨霊をとりあげた。実際、桓武天皇は平安遷都以降、あらゆる手段を使い早良親王の怨霊しずめをおこなっている。五条には御霊神社をつくり井上内親王、他戸親王、早良親王を合祀している。京都に上下御霊神社があり「八所御霊」を合祀している。実際桓武天皇がこれらの人々の祟りを恐れ、神社仏閣に怨霊鎮めに躍起になったことを思うと、その死の真因は桓武天皇側にあると見るのが必然であろう。

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平城京遷都

平城京遷都
  万葉集に次ぎの一句が残されている。題書のとおり太上天皇は元明天皇である。長屋の原は現在天理市長柄であろう。すると、平城京遷都の旅は上つ道を通ったことになる。

和銅3年(710)庚寅の春2月、藤原京より寧楽宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めてはるかに古郷を望みて作らす歌 一書に云はく太上天皇の御製

  飛ぶ鳥の 飛鳥の里を 置きて去なば 君があたりに 見えずかもあらむ

 43代元明天皇は考えていた。今藤原京から平城京への遷都の途上である。なぜ平城京に移らなければならないのか。時は710年、いとしい夫草壁皇子に先立たれ、陵墓を明日香に置いたまま、亡き夫と離れて暮らさねばならない。気のすすまない移転である。考えてみれば今から21年前だ、藤原不比等が直広肆(従五位下)判事に任じられてはじめて宮中に上がってから、藤原鎌足の子ということもあり、ずいぶんと強引な態度が見えていた。690年藤原京の着工が開始され694年には明日香から藤原京に移ってきた。藤原京に移っても工事はまだつずいていた。704年一応都は完成ということにしたが、あちこち不備なところが目立った。なのに707年、都を奈良にうつすという詔をださなければならなくなった。この年文武天皇が崩御された。文武天皇は自分の子である。子に先立たれた母としては大変つらい思いであったが、悲しむ暇もなく自分が天皇になろうとは。どうしてこんなことになったのであろうか。
 藤原不比等の策略に違いない。不比等にとって文武の死は思いがけず、あまりに早すぎた。もうしばらく皇位にいて、やがて文武の子、首皇子(後の聖武天皇)に皇位を譲る考えだった。そのために不比等の娘宮子を文部の妃に入れ、首皇子をもうけた。しかしまだ、首皇子は9歳にしかならない。皇位につくにはまだはやすぎる。首皇子につなぐのにどうすればよいか。そうだ、草壁の皇后元明を皇位につけよう。彼女なら天智天皇の娘であるし、女性天皇は何人も先例がある。不比等はここではっきりと首皇子に焦点をあて、この孫のために万難を排しても天皇につけねばならない。このための戦略に取り組んだ。  
 だけど、何故平城京に都をうつさなければならないのか。自分の父天智天皇が白村江で唐にやぶれ、命からがら明日香にもどり、身の危険から近江に都をうつした。しかし壬申の乱により自分の伯父天武天皇と自分の義姉持統天皇夫婦が心血そそいで構想した藤原京である。従来明日香の都は天皇の私邸のごときもので、強敵唐や新羅に対抗するためにも、国威を発揚するためにも、私邸ではなく日本国の首都が必要だと純粋に考えた本格的な都である。自分の夫草壁皇子も、はれて新都の主になるはずであったのだが、はからずも替わりに自分が新都の主になった。藤原京は南東方面が高く、北西方面に低く、あたりの川はすべて北西の大和川に注ぐ。したがって地下水の流れが都に流れ込むなどと、下水工事の発達してない当時の欠陥を、不比等親派がいいたてるが、そのようなことは、今の権力をもってすれば、どうにでも出来ることなのだ。もう一つ、藤原京は南に狭く、発展性がないと。そのようなことは、前もってわかっていたことである。


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複雑に入り組んだ血統図

 平城京が出来上がるにつれ、元明は不比等の意図を悟った。平城京を見てみよ。これは藤原家の都以外の何ものでもない。内裏こそ中央北側にあるが、東端二条から五条まで都より高いところに外京と称し藤原家の所領で都を見下ろしているのである。東端に藤原氏の氏神興福寺を配し、その南は元興寺で蘇我氏を押さえつけている。そしてその中に東宮がある。東宮とは皇太子の居館である。藤原氏は皇太子をも取り込んだ。皇太子にやがて藤原の娘を嫁がせ、皇位につけ、その子がまた皇位を継ぐ。こうすれば天皇家は代々藤原の血統でつながれる。取り敢えず今のところ不比等の思惑とおりに事がすすんでいる。


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平城京遷都

 遷都から10年経った。そして翌年、元明は死の床にいた。この10年あまりを振り返った。714年元明は退位した。不比等の豪腕にほとほと疲れた。次から次へと出てくる不比等の要求に反抗するすべもなくすでに限界だった。退位を申し出て、次期皇位は元明の娘で文部の姉である氷高内親王に白羽の矢があったった。44代元正天皇である。首皇子は尚若く、もうしばらくピンチヒッターに繋いでもらわなければならない。元正に目をつけたのも不比等であった。716年不比等の娘光明子もすでに首皇子と同じ15歳である。そろそろ結婚させよう。これで首皇子は自分の孫、皇后になるはずの光明子は自分の娘である。あとは天皇、皇后になるだけだ。そして720年藤原不比等は死んだ。自分の野望の限りを尽くしての死であった。そして721年元明上皇も死亡した。

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大伴家持とその時代

大伴家持とその時代

宮廷  天皇 権力者44
元正 げんしょう 715~724  718 大伴家持生まれる
聖武 しょうむ 724~749   727 旅人大宰府に赴任
                 728 山上憶良と親交
                 729 長屋王の変
                 730 大宰府で梅花宴、旅人家持帰郷 万葉巻5
                 731 旅人死68歳
                 732 坂上大嬢・笠女郎
                 736 秋歌4首 万葉巻8
                 738 独り天漢を仰ぎ述懐の歌 万葉巻17
                 739 亡妾悲傷歌 万葉巻3
                 740 東北行幸に従駕、歌を詠む 万葉巻6
                 742 橘諸兄宅で奈良麻呂主催の宴 万葉巻8
                 743 恭仁京賛歌 万葉巻6
                 744 安積親王挽歌 万葉巻3
                 745 従5位下
                 746 7/7越中に赴任、弟書持死哀傷歌 万葉巻17
孝謙 こうけん 749~758   752 8/5帰京、少納言に任ず
                 754 兵部小輔を拝命山陰道巡察使に任命
                 757 兵部大輔に昇進
                 758 因幡守に左遷
淳仁 じゅんにん 758~764 762 信部大輔に任ず、因幡より帰京
                 763 恵美押勝暗殺計画発覚
称徳しょうとく764~770   764 薩摩守に左遷
  孝謙重祚         767 太宰小弐に任ず
                 770 民部少輔任ず、大宰府より帰京
                    左中弁兼中務大輔、正五位に昇叙
光仁 こうにん 770~781   771 従四位下に昇叙
                 772 左中弁兼式部員外大輔に任ず
                 774 相模守、左京太夫兼上総守
                 775 衛門督
                 776 伊勢守
                 777 従四位上に昇叙
                 778 正四位下に昇叙
                 780 参議、右大弁
桓武 かんむ 781~806   781 正四位上に昇叙、春宮太夫
                   従三位公卿に列する
                 783 中納言に就任
                 785 陸奥国にて死去
                    この時中納言従三位春宮太夫兼時節征東将軍
                 806 従三位に復位、永主ら隠岐より帰京

 大伴家持が生まれたのは養老二年(718)で平城京である。718年といえば平城京遷都が710年で、いまだ都が整わない8年後のことである。そして亡くなったのは785年、その前年(784)に長岡京遷都があり、まさに奈良平城京とともに生まれ死んだ人生だった。3歳のとき、父大伴旅人が征隼人時節大将軍として単身九州に赴任し、10才の時太宰師として大宰府に就任した。 その時を機に家持と2歳下の弟の書持を妻(大伴郎女)と共に帯同した。旅人としては大伴家の伝統と名誉を子供たちに伝える必要を感じていたのである。しかし、到着一ヶ月後に大伴郎女は病気が急に悪くなり、まもなく死んだ。家持にとって近親者の死は遭遇した最初のことであり、旅人は深く悲しんだ。平素から酒好きの父はさらに深酒がかさなった。
  験(しるし)なき ものを思わずば 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
  生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
生きている間は楽しくありたいと旅人はいうが、悲しそうな父の姿はいつまでも、家持の記憶に残った。
 
 大伴家は名門の家柄である。720年には舎人親王らによる「日本書紀」が著された。家持が生まれてから二年後である。そこには、天孫降臨の際、大伴氏の遠祖天忍日命は武装して先導されたと記されている。神武天皇が東征された時も遠祖日臣命(道臣命)が大来目を率いて大和への道を先導したとある。雄略天皇の大連であった大伴室屋は靫負(ゆげい)三千人を領して宮廷の守衛に当たったといい、以降大伴氏は久米部、佐伯部、靫負などを率いる指導者の地位についた。 室屋の孫、大伴金村は朝鮮半島との外交交渉にも活躍した。継体天皇の折、任那四県に対する支配を容認する決定を下している。のち、欽明天皇の時代その措置を批判されて失脚し、政権の主導権は蘇我氏に移った。
大化元年、蘇我氏が倒されて新政府ができると、金村の孫・長徳が右大臣になり政界に復した。さらに、先の壬申の乱の折には、馬来田、吹負が大海人皇子に味方し近江朝廷方の軍と戦って大きな功績をたてた。
 旅人は子供たちにこれらを聞かせ、家持には家の再興を、書持には学者の道に行くことを願った。しかし大伴郎女の死後旅人の不便もさることながら、もっとも困ったのは二人の子供の教育問題だった。あれこれ悩んだ結果、旅人の異母妹の坂上郎女を大宰府に呼び寄せることとした。坂上郎女は前夫が何人かおり子供が二人いた。大伴坂上大嬢と大伴坂上二嬢である。このうち大伴坂上大嬢が後、家持の妻となるが、当初は母と二人の女性が加わって、はなやいだ生活を送った。坂上郎女も名門大伴家の後継者を大切に育てた。さらに彼女は当代随一の女流歌人で、家持には大いに影響を与えた。もう一人、旅人の友人で九州に来ていた筑前守、山上憶良を家持に引き合わせた。後世「山柿の門」といわれ家持に大きな影響を与えた歌人に山上憶良と柿本人麻呂がいた。「山」は山辺赤人の説もあるが、おそらく山上憶良であったと思われる。


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朱雀門

 731年、大納言に昇進し奈良に帰ってまもなく、旅人は78歳で死んだ。奈良は佐保の地に大伴家の住宅があった。父に託されて武門の道をゆくべく期待され、本人もそのつもりで武芸に励んだが、和歌の道にはとかく関心があった。坂上郎女をしたって多くの女性が家に訪れては歌会を開いた。その中で万葉集に収められている、女性からの歌が数多く残されている。
笠女郎、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、粟田女娘子、紀女郎、阿部女郎、平群氏女郎などで家持宛に来た歌に返歌をした者、無視された者、数多くあるのである。特に笠女郎は万葉の代表的女流歌人であるが彼女から24首の歌を贈られているが、わずか2首しか返事を出していない。かなり華やかな女性関係であったようだ。
   
 22才のころ家持には二つの悲劇が起こった。一つは佐伯末麻呂との親交の中、娘の阿耶女と出会い、恋におちた。やがて子をなし、佐紀郎女となずけた。この阿耶女が死んだ。悲嘆した家持は「亡妾悲傷歌」を万葉集に残した。もうひとつは安積皇子の死である。安積皇子の死は少し複雑である。
 当時聖武天皇には県犬養広刀自の間に安積皇子がおり、おりからの実力者橘諸兄がいた。諸兄には息子の橘奈良麻呂がおり、家持とは親交があったが、安積皇子の天皇即位を画策していた。一方もう一人藤原不比等の娘、光明子がおり藤原家の期待をになっていた。光明子自身も藤原氏の期待に答え、藤原氏よりに行動した。当時、藤原四兄弟が相次いで天然痘にたおれ、聖徳太子の祟りと恐れられ、法隆寺の再興を計画した頃である。藤原氏の実力者は藤原仲麻呂で、聖武の皇太子に光明子の娘安倍内親王をおした。ここに両派の葛藤があった。当初、長屋王の息子黄文王が皇太子候補であったが、密告により捕らえられ、拷問死している。聖武天皇が難波宮に行幸し、安積皇子も随行した。難波京と平城京の最短、暗峠の近く、桜井の頓宮で急病にかかり急ぎ恭仁京に還ったが、二日後に急死した。帰還の理由は脚の病ということであった。このことが後世大問題となって「橘奈良麻呂の乱」となる。

746年家持は越中守に任じられ富山県高岡に赴任した。これは橘諸兄から伝達された。当時全国約60の「国」があり大、上、中、下に4区分されており、越中は上国とされていた。当時は地方分権で国司は大きな権限が与えられており、中央政府にとって当時まだ東国は未開地で、競って地方に勢力を拡大していた。従って家持の越中国赴任は大伴家の勢力拡張と出世の糸口と考えられはりきっていた。越中時代は「富山県高岡市の二上山」を読んでいただきたい。ただし、弟の書持がこの年没した。
家持は弟の死を悲しみ、その人となりを「花草花樹を愛でて、多く寝院の庭に植う」と述懐した(同17-3957)。

橘諸兄、奈良麻呂父子との親交は万葉集の編纂につながっていった。橘諸兄は『万葉集』の撰者の一人といわれている。これは、『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」とあり、これが元暦校本の裏書に、またある種の古写本の奥書にもはいったことが、一定の信憑性をもつものである。のちに、仙覚は橘、大伴家持の2人共撰説を唱えるにいたった。

 家持は783年中納言に就任後、785年陸奥国にて死去するまで尚、30年を生きた。年表に見るごとく全国各地に赴任をした。この間藤原氏の全盛時代でもあり、家持は体制側につくことはなかった。これが、家持の出世に大きく影響した。この間出世と左遷をくりかえし、従三位公卿どまりとなった。785年家持が死んでなお、事件にまきこまれる。この時桓武天皇で、天智天皇、志貴皇子、白壁王(光仁天皇)と代を次ぎ桓武にいたる。おりから藤原種継の勢力の伸張期であり、天皇の寵愛を一身に受け、表向きはすべて種継に任した。桓武天皇は代々天武系の天皇の都である平城京を嫌い、遷都を考えていた。種継は天皇の意を受け、長岡京遷都を画策した。長岡京は交通の要地であることと、種継の母が秦氏の出で、その根拠地であることが長岡遷都の理由である。桓武天皇には弟の早良親王がおり、立太子していたが、早良親王には何の相談もしていなかった。そのため桓武と早良親王との中は円満ではなく、種継とも疎遠にしていた。やがて種継が暗殺された。がこれが大事件となった。激怒した桓武天皇はすぐ犯人捜査を命じ、実行犯の二人の兵士を尋問の上、即刻死刑に処した。そして事件の首謀者として大伴継人(旅人の弟田主の孫)、大伴竹良(大伴一族)、大伴家持があげられた。家持は死して一月の後のことあった。

 藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。その後、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。
家持の死について「続日本紀」には「中納言、従三位の大伴家持が死んだ」と記されている。律令制度では人の死の表記として上から順に崩、薨、卒、死の四種類である。家持は従三位だったから「中納言、従三位の大伴家持が薨じた」とあるべきだが、身分の除名処分をうけて死んだと表記されているとおもわれる。ただし806年死から20年後に名誉を回復し元の従三位に復帰した。

大伴氏は伝統ある武門の出である。新興の藤原氏とは家格が違う。しかし、権勢は藤原氏にあった。大伴氏が藤原氏の側につくのを潔しとしなかったのであろう。彼は父の遺言もあり、大伴の家名の維持につとめ必死であったが、常に、大友氏凋落の危機を感じていた。彼の歌は常にどこかもの悲しく、根底に哀感をひめている。栄光の過去があるからこそ、現実の危機を常に感じている。

 忍坂(おさか)の 大室屋に 人多(さわ)に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも 
  みつみつし 来目の子等が 頭椎(くぶつつ)い 石椎い持ち 撃ちてし止まん
 
 海行かば 水漬(みず)く屍 山行かば 草蒸す屍 大君の 辺にこそ死なめ のどには死なじ

これは久米歌である。神武天皇に付き従い大和平定物語に組こまれた宮廷歌謡である。代々大伴氏が歌い継いだ栄光の歌である。

 
 さて応天門の変は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。応天門は平安京の朱雀門の内側、朝堂殿の南側にあり大伴氏が建立しこの門を守護するのが任務となる栄光の門である。この応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。

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新薬師寺の現地説明会

新薬師寺の現地説明会

 奈良版の新聞に大きく報じられた。新薬師寺の金堂が発掘されたのだ。早速現地説明会があるというので聞きに行った。場所は新薬師寺の150メートル西側で現在奈良教育大学の東端である。奈良教育大学は考古学に熱心で学者も多い。国立大学だから保存にも力を注ぐと思われる。
 新薬師寺は747年天平19年、聖武天皇の病気平癒を祈って光明皇后が建立されたと伝えられている。当時東大寺と比肩できる、七堂伽藍と東西弐基の塔があり、正倉院に残る絵地図「東大寺山堺四至図(さんがいししず)」(756年)にも、金堂にあたる「新薬師寺堂」が大仏殿より横長で描かれており、これが裏づけられた形だ。しかし、現在は本堂(東西22.7メートル、南北14.9メートル)が残るだけ。他の建物は780(宝亀11)年の落雷や962(応和2)年の台風で失われたとされ、現在の薬師如来は平安時代になって再建された。同時に近くの岩淵寺より十二神像を移し七堂伽藍の内災害から免れた食堂を本堂に改修し、現在の姿になったようだ。 
 鎌倉時代に入って明恵上人が南門 東門 鐘楼 地蔵堂を新に建立し不明だった寺域を現在の区画に確定した。これによって金堂は現在の寺域からはずれたのである。

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         金堂の発掘現場

現地説明会は2008/10/15におこなわれた。駐車場が結構遠くてさらに教育大学に入って距離があり、一番奥までゆくと多少つかれた。現場はいつもの通りあちこちにビニールをひいてあり、発掘跡の柱穴が数十個みられた。柱間(はしらま)が東西11間(54メートル)、南北6間(27メートル)と推定されており、東大寺の大仏殿と同じ「壇上積(だんじょうづみ)基壇」の一部が見つかった。ここが金堂だったとすれば講堂や二つの塔蹟の位置など専門家は想定しているだろう。私は以前新薬師寺に来たとき、薬師如来と十二神将はどのようにして災害をまぬがれ、現在の位置にきたのか不思議だった。燃え盛る火災の中を僧達が必死に運び出す光景を勝手に想像していた。現実は上に書いたとおりである。

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        新薬師寺の本堂

 私は最近再度新薬師寺を訪ずれた。いつも休日を避けてくるので人もまばらで、いつもの静寂さがよい。南門から入って国宝に指定されている本堂の姿を写真におさめた。本堂の西の入口から中にはいる。暗くて目がなれるまで、あたりが見えない。しばらくすると目がなれて、2~3人の見学者がいるのが確認できた。薬師如来と十二神将がいつものとおり美しい姿で立っていた。薬師如来は文字通り薬、医者の神で薬師寺の天武天皇の病気平癒を願った持統天皇と同じ思いで光明皇后は祈ったのであろう。十二神将は自分の役目として薬師如来の十二の方向を分担して、守護している。一つ一つが素晴らしい躍動美で各々国宝に指定されている。新春には初詣の善男善女が各々自分の干支の神様にお祈りするという。ただ私の干支神像である辰の神像 波夷羅(ハイラ)のみ盗難にあったとかで昭和のレプリカがおかれ、国宝から除外されている。中の売店におじさんが手持ち無沙汰でいたので少し話をした。おおよそ記述した内容であった。

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玉骨生家、修復開館へ

玉骨生家、修復開館へ-11月21日には俳句大会【五條】  (2008.9.20 奈良新聞)

11月11日の全面公開を待藤岡家住宅。右が離れ座敷=五條市近内町
 戦後の大和俳壇の重鎮、藤岡玉骨(本名・長和、明治22年―昭和41年)の生家で、五條市近内町の登録有形文化財「藤岡家住宅」が2年8カ月の年月をかけて修復され、11月11日から全館公開される。開館を記念して、同月21日には「藤岡玉骨記念俳句大会」(奈良新聞社など後援)も行われる。

 藤岡家は江戸時代からの庄屋で、「大坂屋」の屋号で薬や染物、両替なども商っていた。江戸時代の建造物の母屋と離れ座敷、別座敷、内蔵、土塀のほか明治時代に増築された書斎や大広間などが復元された。

 玉骨はこの家に生まれ、東京大学法学部からエリート官僚の道を進んだ。一方で、第三高校時代に与謝野鉄幹に出会って俳号・玉骨を受け、その後も文芸雑誌を発行するなど高浜虚子ら多くの文人と交わり、文芸活動を続けた。「ホトトギス」同人。

 昭和20年、うた代夫人とともに生家に戻ったが、夫妻の死後は空き家に。平成10年の台風禍で傷みが激しく解体も考えられたが、玉骨の孫で現当主の藤岡宇太郎さん(茨城県在住)がインターネットを通じて知り得た五條市民に相談。平成16年末に有志市民によって同住宅管理法人「うちのの館」(田中修司理事長)が立ち上がり、修復を決めた宇太郎さんとともに保存と活用へと動き出した。

 平成18年3月に工事着手。昨年春には母屋などが復元され、一部が公開されていた。その後、貴賓の間と呼ばれる離れ座敷の修復や庭園、資料展示スペースとなる蔵などの整備を行い、完成間近となった。

 記念俳句大会には、投句料1000円(二句一組、五條市民は無料)で、誰でも応募できる。当季雑詠(=季節のもの)。締め切りは大会当日の正午。大賞や市長賞、奈良新聞社賞など入選12句を選ぶ。

 大会当日は、島田康寛立命館大学教授の講演「俳句と日本画」がある。会場の都合上、定員は先着50人。大会出席希望者は、所定の投句用紙に記入して申し込む。問い合わせは、うちのの館、電話0747(22)4013。