百済寺と百済大寺

百済寺と百済大寺
 『日本書紀』によれば、舒明天皇11年(639)の秋7月、天皇は「今年、大宮と大寺を造る」と記し、西国の民を徴発して大宮(百済宮)の造営にあて、東国の民を徴発して大寺(百済寺)の造営にあてたという。その年の12月には、「この月百済川の側に九重塔を建つ」とある。7月に詔を出し12月に完成するはずがないので、九重塔を建つと決定し民の徴集が成り起工したという意味であろう。皇極元年(642)9月に、百済大寺を建てるために近江と越の人夫を動員したことが『日本書紀』に見える。おそらく、舒明天皇の時代には完成せず、造立工事はその後、皇后の皇極天皇に引き継がれたと思われる。
 この百済大寺がどこにあったかは古くから謎になっていた。そして幻の百済大寺と言われていた。
従来、奈良県北葛城郡広陵町百済と云う地域に百済寺がある。山部赤人が万葉集に

  百済野の 萩の古枝(ふるえ)に 春待つと 居(を)りしうぐひす 鳴きにけむかも 巻8-1431

の歌があるが、おそらくこのあたりで詠んだ歌であろう。百済人が多くこの土地に住み附いたと言われる。そしてここに春日若宮神社とその境内に百済寺三重塔がある。本堂は大織冠(たいしょくかん)と呼ばれ、談山神社の本殿を移築したものと伝えられる。寺伝では、舒明天皇十一年、聖徳太子建立の熊凝精舎の由緒を継いで百済川河畔に創建された百済大寺といわれるが、創建・沿革についてはつまびらかでない、と伝える。寺の0.5キロ右に曽我川が左0.5キロに葛城川が流れている。曽我川を当時百済川と云っていたのかも知れない。三重塔は鎌倉時代に建立された。

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百済寺三重塔

 余談であるが大織冠というとおり、藤原鎌足所縁の神社であり、ここより2~3キロ離れた橿原市の曾我は蘇我氏の故里といわれ、乙巳の変での蘇我入鹿暗殺を憎み犬猿の仲である。お互い交流もなく婚姻を行わないと聞く。2000年以前までは、ここが百済大寺と信じられていたのであるが、しかし、九重塔があったとしたら、その基壇が発見されない。朽ちたとしてもどこにでもあるはずの屋根瓦も発見されていない。大宮らしきものも無い。ここが百済大寺と自信がもてないまま、いつか幻の百済大寺といわれていた。
 1997年奈良県桜井市吉備の吉備池のあるところで巨大な廃寺が発見された。やがて、吉備池廃寺となずけられた。古くからこのあたりに古瓦が発見され話題には上っていたようであるが、大規模な発掘調査がおこなわれ、塔基壇、回廊、中門、僧房と見られる遺跡が発見され、現地調査も行われた。やがて奈良文化財研究所などの研究でこれが幻の百済大寺であることの結論がだされた。吉備池廃寺の特長は、同時代の他の寺院に比較して基壇が突出して大きいことである。金堂基壇は面積が山田寺の3倍以上、元薬師寺の2倍となる。塔基壇は山田寺や元薬師寺の4倍以上の面積である。金堂、塔を囲む回廊の規模も他を圧倒している。ただし、寺の正面である中門が中央軸からずれ規模が極端に小型であるのが不思議である。伽藍は塔と金堂が平行に並んだ四天王寺式である。しかし多少の疑問が残るのは一つは百済川の所在が分らないこと。寺川が流れているが百済川との関係がいま一つわからないのともう一つは『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』に出てくる「子部社」の存在に不明な点である。


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( http://inoues.net/club/asukaagain1.html))を借用

 

 太子道でも触れたとおり官製大寺の最初は熊凝精舎であるが、この頃はまだ高官子弟の学舎であったらしく百済大寺は画期的大寺であった。文武天皇の時代、天の香具山の南700メートルの地に高市大寺建立の詔が発せられたが、完成間近で焼け落ちてしまったという。高市大寺は後、大官大寺とよばれた。平城京に都が移ると716年に六条大路に面し大安寺が建立され、聖徳太子建立の熊凝精舎の由緒を継いだことになるが現在は昔の面影を残していない。
 さて、百済大寺のある吉備の地であるが吉備内親王や吉備真備がいる。共にこの地に住んだようであるが、元は当時の租税の「租庸調」の「庸」、すなわち京へ上って労役が課せられた吉備の人々が住んだ場所についた名前である。他に飛騨、出雲、豊前、備後、土佐、等々があり、奈良全体では無数にある。

吉備池の堤の北西の隅に立っている歌碑は大津皇子の歌である。

 ももつたう、磐余の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ

西側の堤の中央辺りに立つ歌碑は大伯皇女の歌である。

 うつそみの、人なる吾や、明日よりは二上山を、いろせと吾が見む

 朱鳥、(あかみとり)元年冬十月無実の罪をきせられて持統天皇の前に引きたてられた大津皇子は処刑を言い渡されて、飛鳥から磐余を通って戒重の自宅に帰る途中、磐余池のほとりで詠んだ歌で、大伯皇女の歌は後日伊勢から飛鳥に帰って、大津皇子を偲んだ歌である。ここから二上山が良く見える。ただし磐余池はこの更に南、池ノ内のあたりで現在は池はなくなっているという説のほうが有力である。

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