運慶に会いに行く

運慶に会いに行く
 平成20年早春に運慶流出として新聞紙上を賑わせたオークションだあった。運慶作の大日如来坐像で座高61.3cm、ニューヨークでの出品で日本の宝がまた失われるのかと関係者はやきもきしたであろう。結局真如苑という宗教団体が三越に依頼し14億円という高値で落札した。真如苑は真言密教を母体とした教団で今後5年間公立の博物館等に預け調査・公開してもらい10年後に所有地に施設を建設し、公開して祀るという。土地はすでに日産の工場あとを手当て済みであるらしい。一件落着である。
運慶は生まれが分っていない。ただ、長男湛慶が1173年に生まれたのは記録に残されている。その後少なくとも男子5人の実子が弟子となっている。さらに、円成寺の大日如来が運慶初作品として1176年完成していることが分っている。従って長男誕生が20前後として1157年前後の生まれとおもわれる。1223年に没しているので享年66歳であるからそんなにかけはなれてはいない。
 平重盛の南都焼討ちが1181年、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件に代表する源平の争乱により、主たる寺院の建造物が消失し、1192年鎌倉幕府発足を機に寺院の復興機運が盛り上がった。当時運慶の父康慶の一門が奈良仏師を形成し京都の円派・院派とはりあっていた。どちらかというと京都派の方が金堂・講堂のような主要堂塔の造像を多く請負っていた。当時1057年に没した定朝の彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的な表情など、定朝の平明で優雅な仏像は平安貴族の好みに合致し、その作風は「仏の本様」と称せられていた。宇治平等院鳳凰堂の木造阿弥陀如来坐像(国宝)に代表する作風である。運慶の初期の円成寺大日如来坐像はまだこの流れをうけついでいるが若々しい作風がみずみずしい。さて運慶作といはれる大日如来像はこの真如苑と円成寺以外にもう一体存在する。栃木県足利市の光得寺の重文(座高31.3cm)の大日如来像である。
 一般に像の製作に関する情報は像の中に入れた体内物や台座の裏側、寺社に伝わる縁起書類によって知ることが出来るが、必ずしも書付を記すとは限らない。そういう意味で作者を特定できない作品は数限りなくあり、運慶作品だけでも発見されている作品以外にどれだけあるか分らない。また運慶作といえども100%特定しているとも限らない。この光得寺の大日如来像は樺崎八幡宮につたえられ、明治初年の神仏分離の際、光得寺に移されたものである。樺崎八幡宮の前身は足利義兼の開いた樺崎寺赤御堂で樺崎寺の縁起を記した「鑁阿寺樺崎縁起並に仏事次第」に記されているのである。そして真如苑の大日如来像はX線写真で判明した像内納入品の形態や納入方法が光得寺像によく似ており光得寺像の前段階の特徴を有している。「鑁阿寺樺崎縁起並に仏事次第」によれば樺崎寺の下御堂というお堂に建久四年(1193年)11月6日の願文に厨子に入った三尺皆金色の金剛界大日如来像があったと記録があった。座高もよく似ており真如苑像発見時にこの書類により特定したという。(山本勉氏) 運慶は人生前半は当時の武家の興隆と共に関東地方に多く造像を依頼され納品されているが後半は名声が上がるに従い興福寺、東大寺など関西方面に活動の場を求めたようである。

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苑池より楼門を望む

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中に大日如来坐像が鎮座する多宝塔

 運慶流出事件も収まったこの冬の一日、円成寺に運慶に会いに行った。春の坂道でおなじみの柳生街道を東進し車で奈良から30分、円成寺の山門に着いた。冬の平日で参観者は殆どいない。参道の苑池をとおして楼門をみれば絶好の写真スポットになっている。楼門はくぐらず通用門から寺の中に入る。入るとすぐに本堂がある。ここの本尊は阿弥陀如来坐像である。この手前に多宝塔があり中にお目当ての大日如来像がある。多宝塔は中に入れず、ガラス越しで中に大日如来像を拝観することになる。外が明るく冬の日差しがさし中は薄暗く残念ながらはっきりと、像を見ることが出来なかった。写真も何回か撮ったが写りが悪く実用にはならなかった。運慶の大日如来像は残念ながらまほろば紀行には紹介出来ないので是非訪問して鑑賞していただきたいと思う。今回は若いころの運慶の作品を大日如来坐像に限って紹介したが、勿論東大寺南大門の二王像や興福寺北円堂の作品が円熟期に達した頃の作品で更に見ごたえのあることは云うまでも無い。

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