志貴皇子の憂愁

志貴皇子の憂愁

天智天皇、天武天皇の時代の皇子達は何故か魅力的な皇子が多い。今回は志貴皇子を取り上げる。
 志貴皇子は天智天皇の第七皇子である。桓武天皇の系図を見ていただきたい(桓武天皇系図)。天智天皇と白壁王(光仁天皇)の間に〇印がついているが、これが志貴皇子である。皇子の生誕年はわからない。しかし、天武8年(679、吉野の盟約)には、20歳を越えていたと推測でき、すぐ次の兄の川嶋皇子が657年生まれであるから、658年から660年の間にくると思って間違いはないだろう。明日香にあった斉明天皇の「後岡本宮」で生誕した。だが、天智天皇の大津宮への遷都にしたがって、少年時代を琵琶湖のほとりで送ることになる。そして、人生を一変させたであろう673年の壬申の乱で、時代は天智から天武の世となり、天智の皇子である志貴皇子の微妙な立場が想像される。それは志貴の青春期の入り口にあたる。志貴は万葉集に6首の歌をのこした。いずれも秀歌で万葉を代表する歌人とも伝えられている。

 次の歌はおそらく近江朝の頃の歌とおもわれる。
    皇子の懽(よろこび)の御歌一首
    「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」 (巻8─1422)
           ◇垂水 高い所から流れ落ちる水。滝。

 672年壬申の乱が始まり、天武天皇が弘文天皇軍を破り都を飛鳥浄御原宮においた。そして、679年天武8年5月に、天武は皇后と6人の皇子を伴い吉野に行幸する。壬申の乱の起点となった思い出の地で、皇子たちに将来の協力を誓わせる。天武には腹違いの多くの皇子たちがいたが、この時は、天智系も含めて、成人した皇子たちが集ったらしい。草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、志貴皇子という序列で「書紀」には出てくる。河嶋も志貴と同じく天智系である。「書紀」には、草壁が一番に誓いの言葉を述べて、後に諸皇子たちが続き、天皇が襟を開いて6人を抱いたとある。

 686年、天武天皇が崩御し持統天皇が皇位についた。志貴の身辺は急に慌ただしくなってきた。天武天皇が健在の間は皇位の継承問題は起きなかったが、草壁皇子が皇太子についてから、持統天皇の恐怖政治がはじまった。草壁皇子は病弱でいかにも弱々しい。それに較べて大津皇子は人格、体力とも天武に似て誰の眼にも皇位にふさわしい。天武も大津の将来に期待をいだいていたらしい。出生も母が大田皇女で持統と姉妹の間であり遜色ない。大田皇女は早世したのが大津には不幸であった。持統は何が何でも天武と持統の子孫に皇統を継がせたかった。草壁の次はその子5歳の珂瑠皇子(後の文武天皇)にする。やがて持統の毒牙が大津にふりかかる。河嶋皇子の密告により大津の死が宣告される。大津が謀反の行動を起こしたか持統の陰謀か、永遠の謎である。ただ当時の権力者は自分の野望のため、多くの人々を抹殺してきた。権力者のライバルが常に生命をおびやかされる。おそらく皇子たちは恐怖にふるえあがったであろう。志貴は天智系でかつ卑賎の采女の子であるため皇位の可能性はない。しかし、いつ毒牙が向かうかわからない。これ以来、自分の立場に十分な配慮をはらったのであろう。自分の才能を歌にむかわせたのかも知れない。

 やがて持統は藤原京遷都を計画し、694年遷都した。

    明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌
     「采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 (巻1-51)

 慶雲三年は706年である。文武天皇が難波の都に行幸したときの歌である。

    慶雲三年丙午(ひのえうま)、難波宮に幸(いでま)す時、志貴皇子の作らす歌
     「葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ」 巻1-64)

【語釈】◇葦辺ゆく 葦のほとりを泳いでゆく。◇羽がひ 背中にたたんだ両翼の交わるところ。◇大和 原文は「倭」。今の奈良県にあたる。

 しかしこの天武と持統の血筋の男子は短命に生まれつき、皇統の維持のために無理に無理をかさねた。このため、二人の女帝を生む結果となる。元明天皇、元正天皇である。この二人は男子天皇のつなぎとして擁立された。やっと聖武で安定かと思われたが、またまた、男子にめぐまれず、孝謙天皇を擁立することになる。この女帝ははじめから天皇になるべく、皇太子から皇位にのぼりつめ、結果は皇統が絶えることになる。ポスト称徳天皇(考謙の重祚(ちょうそ))をめぐり更なる後継問題が連続した。この背後には藤原不比等の野心があった(平城京遷都 参照)。当時の政治はほぼ藤原不比等の手の内にあった。藤原氏に刃向かうものは命の保障はない。

    志貴皇子の御歌一首
     「むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも」 (巻3-267)

【通釈】むささびは梢へ飛び移ろうとして、山の猟師につかまってしまったよ。

 平城京での志貴皇子は高円山の麓に住所をかまえた。高円山にはむささびがたくさんいたという。権力に抗し没落した皇子が沢山おり、その末路をいたんだであろう。自分への戒めとしたのかも知れない。
 
    志貴皇子の御歌一首
     「神なびの 石瀬の杜の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ」 (巻8-1466)

◇神なび 「神の坐(ま)すところ」を意味する語。◇石瀬の杜 不詳。奈良県生駒郡斑鳩町の龍田地方の森、あるいは同町の車瀬の森(龍田神社の南)、あるいは同郡三郷町の大和川北岸の森かという。◇毛無の岡 不詳。志貴皇子の住まいの近くの岡であろう。

    志貴皇子の御歌一首
     「大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも」 (巻4-513)
◇大原 奈良県高市郡明日香村。◇いち柴 原文は「市柴」。「いつしば」とも。「いち」は「いつ」と同じく勢いの盛んなことを表わす語。
 
 これらの歌は隠忍自重する心境を語ったものか、捲土重来を期した歌か。

689年 志貴皇子は撰善言司に任命された。善言とは為政者の倫理の指針となるような教訓を集めた書物で幼少の文部天皇の教育教材の編纂役である。
703年 大宝3年、持統天皇の殯宮のあと、志貴皇子は造御竈長官に任命され、火葬設備の造営をつかさどった。持統は天皇としては初めて荼毘にふされ、天武が眠る明日香の大内山稜に合葬された。奈良時代の貴族の間では火葬がブームとなったが、持統の火葬はその走りである。この功績によるのか、翌年には四品に叙され、封100戸を増益されている。(品位とは親王の序列で、一品、二品、三品、四品に序列されていた。)
707年 慶雲4年、文武天皇の崩御に際して、志貴皇子は「殯宮のことに供奉」している。 政治的な派手な動きはないが、地味ながら重要な役を着実にこなして、時の主流派に貢献するという印象がある。自分の立場をよくわきまえて、賢明に時流に処していった人であっただろうか。
708年 三品に昇進した
709年 白壁王(のち光仁天皇)生まれる。
715年 二品に昇進
716年 死亡
 以上の生涯を送っている。白壁王は志貴皇子の50歳頃の子である。この頃は平城京遷都の直前の頃である。そして
死亡の時期は58歳~60歳、光明子が聖武の皇太子妃になる藤原氏の絶頂の頃であった。これ以降白壁王の時代となるが、父志貴皇子以上に呼吸のつまりそうな時代だったであろう。だがこの親子は長寿で天命を全うした。そのおかげであろう、やがて光仁天皇となり、桓武に時代をひきつぐことができたのである。(桓武天皇と怨霊参照)


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志貴皇子の住んでいた高円山

 志貴皇子の葬送は高円山で行われた。万葉後期の代表歌人笠金村は挽歌を贈った。

 霊亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手挟(たばさ)み 立ち向(むか)ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼く 野火(のび)と見るまで 燃ゆる火を いかにと問へば 玉桙(たまほこ)の 道来る人の 泣く涙(なみた) 小雨(こさめ)に降れば 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)ひづちて 立ち留まり 我に語らく 何しかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の 御駕(いでまし)の 手火(たひ)の光ぞ ここだ照りたる(万2-230)

 短歌二首

  高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(万2-231)

  御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに(万2-232)

 下の歌は、笠朝臣金村の歌集に出でたり。或本の歌に曰く

  高円の 野辺の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲はむ(万2-233)

御笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに(万2-234)

【通釈】[長歌] 梓弓を手に取り持って、勇士たちが、狩の矢を指に挟み持ち、立ち向かう的――その名も高円山に、春野を焼く野火かと見える程盛んに燃える火を、何故と問うと、道を歩いて来る人の、泣く涙が小雨のように降るので、真白な喪の服が濡れていて――立ち止まり、私に語ることには、「どうしてまた、そんなことをお尋ねになる。聞けば、ただ泣けるばかり。語れば、心が痛い。天皇の尊い皇子様の、御葬列の送り火の光が、これほど赤々と照っているのです」。
[短歌一] 高円山の野辺の秋萩は、むなしく咲いて散っているのだろうか。見る人もなしに。
[短歌二] 御笠山の野辺を行く道は、これほどにも草繁く荒れてしまったのか。皇子が亡くなって久しい時も経っていないのに。

 

 

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