みかさの山にいでし月かも

みかさの山にいでし月かも

 古今集に以下の和歌が掲載されている。百人一種にも選ばれた阿倍仲麻呂の一句で、大方の人はご存知であろう。以下紀貫之の前書き、あとがきをそえて鑑賞してみよう。

「もろこしにて月を見てよみける」

     「あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでし月かも」

「この哥は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでござりけるを、このくにより又つかいまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、めいしうといふところのうみべにて、かのくにの人むまのはなむけにしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる」

 前書きは問題ない。あとがきは大意つぎのようなものだ。
①この歌は中国内の作歌である。
②明州(中国東海岸)における別離の宴における作歌である。
③その現地で、そこで海上に「月が出た」のを見て作ったもの、と語り伝えられている。

 阿倍仲麻呂の主な略歴を記す。
698年 阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。
717年(霊亀2年)多治比県守が率いる第8次遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。
725年 洛陽の司経局校書として任官、
728年 左拾遺、
731年 左補闕と官位を重ねた。
733年 第九次遣唐使が帰国する際に帰国を願い出たものの、玄宗の許しを得られずやむなく唐に残り、次の機会を待つことになる。
751年 第十次遣唐使が派遣され、このとき副使を勤めた吉備真備との15年ぶりの再会などを喜び、いよいよ望郷の念を強めたに違いないと思われる。玄宗に帰国を再度願い出、ようやく帰国の許可が下りたとき阿倍仲麻呂は55歳になっていた。
仲麻呂の便乗した大使藤原清河の第一船は途上で難破し、安南(現在のベトナム)に流れ着いてしまう。安南に流れ着いた第一船は現地人の襲撃を受け、180余人の乗組員のうち生き残ったのが10余人となる悲惨な体験をするが、阿倍仲麻呂や藤原清河は難を逃れ、2年後に長安に辿り着く、てっきり仲麻呂(中国名では晁衡または朝衡)が死んでしまったと思った杜甫は「嘆晁卿衡」という詩を作って哀悼したという。長安に戻った阿倍仲麻呂は再び玄宗に仕え、藤原清河も唐朝廷に仕えることになった。
第三船(吉備真備便乗)が屋久島に漂着したものの帰国
第四船(大伴古麻呂、鑑真和上便乗)も無事帰国
第二船は行方不明
753年 帰国する仲麻呂を送別する宴席の時に、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど諸説ある。
770年1月 長安にて死去

 当初の歌は10人中9人は奈良春日の地を思って詠んだものと思っている。どの万葉集の解説書もそう書いている。しかし考古学者古田武彦氏はこれは九州の歌であるという。
世に九州王朝説がある。歴史の主流ではないが一部信じられているようだ。その主張点を記す。
①天孫ニニギノミコトが竺紫(つくし)日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。これは長垂山の海岸に渡来したのであろう。これは博多湾の南、現在も地理上存在する。これが九州王朝の初代である。
②日本国を名乗り始めた天智天皇以前の歴史の主要な出来事はすべて北九州の出来事である。そのころ都は太宰府におかれていた。その転機になった出来事は、663年白村江の戦争の敗北である。九州王朝筑紫君薩夜麻が唐に捕虜となり、唐に連行される。8年後に帰国をゆるされる。
③古事記、日本書紀の歴史書はその原本は九州王朝で作成されていた。大和に都が移ってからは、歴史は改竄されすべて大和の出来事のごとく書きなおされ、九州王朝の痕跡を消し去った。
④原万葉集といわれる巻1、巻2は九州王朝でつくられたもので、場所、事柄は九州が主体である。九州王朝の痕跡を残す歌は削除されるか、一部内容と作者を巧妙に変更して残した。そして大伴家持以降万葉集編纂時に前書き、後書きを付して正式な歌集とした。万葉集が編纂がおわるのは平安時代になってからである。

 倭姫王は天智七年(668)二月、倭大后となる。天智天皇の危篤および崩御の際に詠んだ歌四首が万葉集に収められている。そのうちの一首をしるす。

天皇の聖躬(せいきゆう)不予(ふよ)の時、大后の奉る御歌一首

  天の原ふりさけ見れば大君の御寿(みいのち)は長く天(あま)足らしたり(万2-147)

【通釈】天空を振り仰いで見れば、天皇の御命は長く、空に満ち足りるほどである。
【補記】天智十年(671)、天智天皇臨終の際の歌。天皇は同年十二月三日、崩御。四十六歳。

倭姫王は舒明天皇の孫。古人大兄皇子の子で皇子は天智天皇に暗殺されている。倭氏とは当時百済の王系の貴族で、倭氏にひきとられて養育されたのか、後、仇の男の妻になっている。この頃の宮廷の著名人は出自がはっきりしない貴人が多い。特に有名なのは鏡王女(天智天皇の妃から中臣鎌足に下された)、額田王(天武天皇から天智天皇へ再婚、著名な女流歌人)の姉妹で、当時百済の滅亡で数千とか数万の百済王室とその家臣が日本に帰化している。その一員ではなかろうかといわれている。大阪枚方に百済王神社があるが百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移した。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。その子の南典が死去した時、朝廷は百済王の祀廟を建立させたものである。

 話を戻す。上の歌は倭姫王の作と伝えられているが、九州王朝説ではこの歌は違う解釈となる。天智天皇がいまにも死にそうな時に枕元で命は永遠であるとは歌わないだろうという。天の原とは壱岐島の北端にある地名である。那の津(博多の古名)から出港し朝鮮半島に向かう途中、必ず壱岐島の北端をとおり、対馬から朝鮮半島方面または中国方面に向かうことになる。または日本に帰化するときはその逆を航海する。壱岐の先端から「ふりさけ見れば」天足らしたり、即ち長垂山が見えることだ。ニニギノミコトの上陸した聖地は永遠であると歌っているのである。


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図1 白村江への道 途中壱岐島がありその北端に天の原がある。

 当初の歌に戻る。明州における別離の宴に際し、仲麻呂は日本出発の際、上の航路を通ったのを思い出したのであろう。倭姫王と伝えられる歌を知っていたのであろう。天の原を通った際、ふりさけ見たものは春日なる三笠の山といわれる太宰府の東方、春日の地にある、宝満山(通称三笠山)だった。この航路は昔から何千何万の人々が通ったことであろうか。各々の人々が深い感慨をもって通ったことであろう。百済から敵の迫害を逃れ、故国を捨てて異郷の地に来た人々の不安と長い航海を終える安心。白村江に向かった2万、3万の防人が、家族を故郷をしのび、おそらく最後の光景でなるであろう、故国の最後の姿を目に焼き付けたことであろう。そしてほとんど白村江の海の藻屑と消えた。仲麻呂はこれらの人々と同じ思いを、偲びそして自分の今後の身の上を思ったのであろう。自分は懐かしい故郷を再度見ることができるであろうか。


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 図2 九州福岡太宰府の東、春日市にある宝満山

 このように解釈すれば、この歌はまったく違った意味を持つことになる。何よりも仲麻呂の万感の思いがこもっている。だいたい、奈良の春日山は標高297m、春日山原始林の花山が498m、背景にさらに高円山が標高432mあり、三笠の山は高円山の山影に沈み月が昇るのはみることが出来ない。むしろ高円山にいでし月というべき光景である。何よりも海の上に月が出たはずなのに、海など奈良にはあるはずがないのである。④で述べたごとく題詞と本歌を同時に読むと、とんでもない間違いを起こすのを、気をつけなければならない。過去伝えられる本歌にたいし、後世伝聞に従って異なる人が注釈を書くと、歌そのものの真意が消え去ってしまう。これは万葉集が先に述べた経緯をたどったための過ちで、仲麻呂の歌も古今集であるが、本来万葉集に載るべき時代の歌であり、紀貫之がこのような注釈を書いたものだから、後世すっかりあやまって伝えられた。
 九州王朝説は上に限らず、壮大な体系をもっており、必ずしも全部信用できないし、過去の教育、教科書とかなり異なるため、にわかに信じがたい。大体話しが部分的で、では全体の歴史体系がどのようになっているのか、となると、もうひとつ説得力がない。

しかしすべて創作であるかといえば、納得できることも多いのである。

 

 

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