太子道

太子道

 奈良県の地形を見ると二つの特徴がある。図に見るように大和川を魚の背骨にして支流となる川が子骨のように北から南からながれこんでいる。盆地の川はこれ一本である。もう一つは盆地の標高で一番低いところは大和川が大阪に流れ込むところで約30m、一番高い盆地部は約100m、全体として大和川の南の支流は北西に,北の支流は南西に流れている。飛鳥時代以前の南北の道はおそらく川に沿って通っていたとおもわれる。なぜなら川を渉るのは大変難儀なことだからである。奈良時代になって条理制をとり東西に横大路、縦に下つ道、中つ道、上つ道の3本が官道として開通され南北交通はこの道を利用することになるが、これ以外の道はこのまま残ったとおもわれる。また、田んぼであるが,必要な水は主として川の水をひくことになるが、川に沿った田んぼは川に平行となる。灌漑用水も田の方向に沿うことになる。従って必然的に奈良県の道も北から西へ20°傾いた地形となる。太子道といわれる今回主題の道も飛鳥川と寺川の間を巧みに縫って通っている。

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奈良盆地の河川の状態

 さて聖徳太子の斑鳩の宮が完成したのが601年、小懇田(おはりた)の宮に移ったのが603年、太子の亡くなったのが622年である。従ってもし大子が太子道を通って毎日通ったとして20年間である。更に小懇田が定説とおり豊浦(とゆら)の近辺もしくは雷岡(いかずちのおか)東方どちらでも17km、もし桜井(大福)の三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)の近辺と考えたら12kmである。説話によれば斑鳩寺を建てるのに飛鳥から矢を吹き、落ちた所が屋就神社(やつぎじんじゃ)で、これでは近すぎるというのでそこから第二の矢を吹いた。するとそこは屏風(びょうぶ)近くの杵築(きつき)神社内に落ち、更に三の矢をついだ。そこで落ちたのが斑鳩であったので其処を斑鳩寺の場所に決めたというのだ。それはともかく太子道はこの3区画で説明する。

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    太子道(筋違道)

(http://sanzan.gozaru.jp/kodou/taisimiti/taisi1/taisi1.html  の図を拝借)

 飛鳥、屋就間では太子道の面影は殆ど無い。ただこの飛鳥桜井橿原地帯は太子の伝承が多く、古道も多い為5,6通りが用意されている。伝説とおり屋就街道は太子道であろうといわれている。屋就神社近くに多(おお)神社があり春分、秋分の頃は東に三輪山から太陽があがり、西に二上山へ陽が沈む所である。
 最も太子道の面影を残しているのは屋就屏風間である。この間、黒田、伴道、屏風の3キロの間はその痕跡をよく残している。太子腰掛の石や太子接待の絵馬がある杵築神社は太子昼食時、屏風をたてて風を防いだということが「太子伝私記」に記されているという。太子道から少し離れるが、額安寺がある。ここは太子が自分の太子達の教育のため、インドの祇園精舎をまねて学問所を作ったのが始まりで、太子が晩年病気になったのを推古天皇の名代として見舞いに来た田村皇子(後、舒明天皇)に額安寺建立を託したという。額安寺は官製最初の大寺として、以降百済大寺、大官大寺、大安寺と教義を次いだのである。
 太子道を歴史の道として鑑賞するのであれば、このあたりまず黒田の桃太郎伝説で有名な考霊天皇の庵戸(いおりと)神社。能の面塚、島の山古墳などであろう。
 屏風より北の道であるが、図のコースは少し西よりであるが実際のコースは、もう少し直線的に進み吐田(はんだ)のあたりで大和川を渡ったはずであるが、今では殆ど姿を留めていない。更に進み安堵(あど)町から高安に向かう。大和川は昔から洪水の多い川であらゆる支流が流れ込むこの地帯は、洪水の中心である。現在でも少し前までは大和川が氾濫し、支流の川の水が行き場を失って流域に溢れ出す。奈良、大阪県境の亀の背は今も地盤の悪い地震地区で、ここが塞がれれば奈良盆地一体は沼地と化す。太子の時代から今まで1400年、100年に一度の災害でも15回見舞われていることになる。灌漑工事の幼稚な昔は洪水の巣であった。やがて高安から西に向かい、法起寺、法輪寺、中宮寺、と続き斑鳩寺にいたる。
 いわゆる筋違道といわれる太子道はここまでであるが広い意味での太子道は斑鳩を中心とした太子縁りの各道々をいう。特に太子が崩御して磯長(しなが)へ葬られた太子葬送の道は忘れられない。この道は竜田から船戸の渡しを渡り王寺に入る。達磨寺(だるまじ)を過ぎ片岡山の餓え人に出会った片岡山を過ぎ、現在の国道168号に沿い更に国道165号に沿って逢坂(おおさか)にいたる。直進すれば国道168号で左におれれば屯鶴峰(どんずるほう)から穴虫峠である。峠を越えればやがて磯長にいたる。
 さてこの太子道、太子は17キロもある道を毎日往復したのであろうか?常識的にはありえない。よく分らないが例えば1ヶ月小懇田で勤務し、1ヶ月斑鳩で生活したというのが常識的なところであろう。さらに太子は摂政後半は殆ど事跡がない。蘇我馬子と政治哲学が合わず、斑鳩で仏教三昧で暮らしたと思われる。太子信仰がはやりだしたのは平安の後期以降である。『聖徳太子伝暦』は10世紀に出来上がりこの頃のことであろう。太子信仰が興隆するといよいよ伝説化され同時に太子詣でがはやったのである。太子詣では法隆寺にとどまらず、あらゆる太子の足跡のある場所を訪れた。これがやがて太子道として後世伝説化されていったのであろう。

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三十八柱(みそやはしら)神社

三十八柱(みそやはしら)神社

****** 天皇 初 終 在位 飛鳥 飛鳥以外 小懇田
33 推古天皇 592 628 37 11 26
34 舒明天皇 629 641 13 5 6 2
35 皇極天皇 642 645 4 1 3
36 考徳天皇 646 654 9 7 2
37 斎明天皇 655 661 7 6 1
38 天智天皇 662 671 10 5 5
39 広文天皇 672 672 1 1
40 天武天皇 673 686 14 14
41 持統天皇 687 698 8 8
***********103 33 32 38

古代史の時代区切りに飛鳥時代があるが、この時代飛鳥に都が置かれていた時代と認識しているが、ずっと飛鳥に都を構えていたわけではない。飛鳥時代以降は藤原京時代になるが710年平城京に遷都するまで、藤原京から動かなかったし平城京以降もおなじである。飛鳥時代以前は天皇の宮殿が都とされ一天皇一宮殿が原則で京といわれるものがなかった。一応磯城嶋と呼ばれる三輪山の麓周辺から磐余地方という桜井市周辺が日本の故郷と云われ、古代王朝が好んで都した場所であるし、ここに都することが王権を確立する条件である如きものがあった。
 この飛鳥時代は一応推古天皇が592年崇峻天皇暗殺の後をついで第33代の天皇即位した時を始まりとする。都を豊浦宮におき聖徳太子を立太子させた。以降694年藤原京遷都までの103年間である。

それでは飛鳥とはどこをいうのか。その範囲は一応天の香具山の南、飛鳥川の東の山に囲まれた範囲と云うのが定説である。この間9代103年間のうち、飛鳥に都した期間は33年間、飛鳥以外が32年間、残りは小懇田宮に38年間在位したことになる。ではこの小懇田宮時代はどのように解釈するのだろうか。小懇田宮は他の宮殿もそうであるが所在地確定がされていない。飛鳥XXと宮廷名に場所名がついているものは、間違いなく飛鳥だったのであろうが、小懇田宮は飛鳥がついていない。現在この所在地について三つの有力な説が存在する。
 ①小懇田は飛鳥の総称である。あるいは飛鳥そのものでる。
 ②小懇田は豊浦にある。あるいは豊浦の近くにある。
 ③小懇田は耳成の東、大福にある。
従来小懇田宮は聖徳太子で有名な推古天皇の都で何の疑いも無く飛鳥に存在すると考えられていた。もちろん①または②と解釈され②の豊浦も飛鳥川の川向こうと云うことで場所的には大きな論争はなかったものと思われる。しかし、梅原猛先生が飛鳥の研究を始めた頃、その場所にいたく関心があり、調査している間に③の説の存在を知ることとなった。大福は近鉄大阪線八木駅と桜井駅の間にあり北海道の幸福駅と同じく縁起のよい名前で一時有名になった。小懇田大福説は三十八柱(みそやはしら)神社の宮司の石井繁男氏が以前より古今の書を読み漁り、この説を梅原猛先生に説明をした。初め大福説を信じなかった先生もその説の的確さに感心し、やがてこの説を信じることとなり1980年発表したものである。今では「小懇田宮伝承乃地」の碑が先生の揮毫で建立されている。それから30年たつがその後の進展が見られていない。決定的にはその遺構が発見され考古学的発掘調査が行われなければ、文献検証だけでは確定出来ないであろう。

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梅原猛先生の「小懇田宮伝承乃地」の碑

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神社の社歴が書いている

 さて、小懇田が飛鳥であろうがなかろうが、表に見るごとく都が何度となく移動した。この出たり入ったりの繰り返しはなにによってもたされたのか。二つの要因が考えられる。一つは求心力。天皇権力基盤が弱いときは、常に当時の権力者の庇護をうけなければならない。当時の飛鳥は蘇我氏の本拠で蘇我稲目の娘を後宮に入れ外戚として権力を握っていた。さらにこれから蘇我馬子の時代になり権力の絶頂に達しているときであった。崇峻天皇暗殺は権力に刃向う者の結果を象徴していた。当時東漢氏という帰化氏族の武力と文化力と技術力が他を圧倒し、これを後ろ盾にした蘇我氏が権力を独占した。一方は遠心力である。蘇我氏の縁戚とはいえ独立した権力を維持したい天皇家は、折あらばその影響力から距離をおきたいのは当然である。603年小懇田宮遷都はこのような時に行われた。推古天皇発足より10年過ぎてこの間聖徳太子は馬子の影響力から脱するためにあらゆる努力をはらったにちがいない。折りしも607年隋からの使者が来る。百済、新羅の使者も迎えなければならない。豊浦宮の稲目の邸宅では外国の賓客をもてなせない。どうしても宮廷なるものが必要である。そしてできれば蘇我馬子の元を離れたい。これは太子の力をもって、最大限遠心力が働いた時であろう。太子は蘇我氏の力をたよらず、秦氏、膳夫氏などの力をかりた。推古朝当初から計画した斑鳩宮や横大路もできあがりかけた。小懇田宮の建設には太子は苦労したであろう。さすがに斑鳩では蘇我氏が我慢していまい。海外使節をむかえるには船便のよい大和川流域がよい。そして何より飛鳥から離れたところがよい。大福は絶好の地である。敏達天皇の宮廷もすぐそばだ。

 そして小懇田宮が出来上がった。記録によれば南門から入り朝庭には庁が並び北に大門があって内裏につうじる、のちの朝堂院の原型がすでに出来上がったいたという。このような努力で出来上がった宮は飛鳥内であるはずがないと思う。やがて太子は数々の業績をあげながら後年太子は仏教の道に傾倒し、推古、馬子に先立って死んだ。太子の死後蘇我氏はさらに力をつけた。その後、推古、馬子共にこの世を去ったが、蘇我氏の子孫の蝦夷、入鹿の時代になり益々、権勢を増していった。
 さて小懇田大福説が成り立てばどうなるのか?先ほどの表で飛鳥33年飛鳥以外70年となり飛鳥時代といいながら実は飛鳥に都した時代はその名に値しないほど短かったことになる。

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まほろばはじめに

はじめに

「まほろば紀行」は2007年暮頃から、自分のHPを立ち上げて、暇にまかせて自分の歴史観を思いつくまま書いたものです。
今では144編も綴り長く続いたと思っています。この間考古学書を読み、奈良県下での発掘調査現地説明会に参加し、知識不足はインターネットのホームページを随分と参考にさせていただいた。写真も現地に行けるものはカメラ持参で行き、現地に行けない遠隔地の遺跡や発掘品はHPを利用させていただいた。

 今回、「まほろば紀行」を旧HPから「best-book.jp」に移行するにあたり、従来作成順に並べていたものを、作品が多くなったので雑然と並べるのではなく、テーマごとに分類しました。

 まず、まほろばの意味を紹介したい。まほろばとは日本語の古語で「美しいくに」とか「美しい場所」の意味です。
古事記中巻の景行天皇の条で倭健命(やまとたけるのみこと)が死にのぞみ
    
   倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

と詠みます。「まほろば」は日本の各地に存在しますが、通常は大和の国、特に奈良盆地をさします。
瑞穂(みずほ)とは、みずみずしい稲穂のことで、稲が多く取れることから瑞穂の実る国ということで、「瑞穂国」(みずほのくに)、「豊葦原千五百秋瑞穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)が日本国の美称としても使われます。この国は三輪山の北西部で昔から稲がみずみずしくはえていました。もう一つ秋津島も日本の美称の代名詞に使われます。これは奈良盆地の南西、葛城山のふもと付近をさします。この地方は、現在も地名「秋津」があり葛城氏の米どころでした。奈良県を縦断する京奈和道の工事中に秋津遺跡や 西山遺跡 が発見され、奈良県最初の米の耕作地遺跡として、考古学ファンには知られるところです。

 さて「まほろば紀行」を分類して北、中、南、西、東の大和としています。各々北和、中和、・・・・といいます。この意味も多少説明します。この対象地区は奈良盆地で盆地以外は言わないようです。そして文字どうり奈良盆地を五分割したおおよその方面をいいます。厳密な区画定義があるわけではないので、ぼんやりと東西南北方面をいうようです。ただし中和は桜井、橿原方面をいうようです。ここでお断りですが、このうち東和は実際にはありません。現在大和は奈良県の旧国名ですが、大和(倭)は古く、古代王権が発生し、局所的に三輪山の麓あたりをいいます。(大和について) その為この王権発生地点を中心にした方向感覚でこのようにいうようです。東和は単に「大和」でそこから見ての言い方なのです。いわゆる本家です。本家から見て東だ、西だというのであって本家がどこかからみて西だ、東だと言わない道理です。従って、東和はないのです。東和は「まほろば紀行」の分類のため仮に定めたものなのです。

 そういう意味で私の分類もいい加減で北和は奈良、郡山地方、南和は明日香、吉野地方、中和は橿原、高田地方、西和は葛城、五条地方、東和は桜井、オオヤマト地方、で大まかに分類しました。

蘇我氏の奥津城

 

いきなり我が家の場所の紹介であるが、大和三山を思いえがいてほしい。畝傍山と耳成山を直線で結び東の天の香具山をその直線を軸に180度西に回転すると平行四辺形ができるが、その頂点のところが我が家である。場所は橿原市曽我町、すぐそばに曽我川がながれ、近所には曽我神社(曽我座曽我津比古神社)が、さらに隣の小網町(しょうこちょう)には入鹿神社がある。すなわちここは古くから蘇我氏の奥津城といわれ、別名十三塚(とみつか)といわれる小さな円墳が十三個ほどあったそうである。地域開発の波にあらわれて、殆どの塚はとり壊され現在、一、二個残っているが住宅に囲まれ殆どわからなくなっている。

 ま菅よし 宗我の河原に 泣く千鳥 間なし我が背子 我が恋ふらくは


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万葉歌碑が建つ磐余神社の境内

曽我神社から曽我川に沿って500米ほど北に磐余神社があり、上の万葉歌が石碑に刻まれている。その境内に岩神社という祠が立っており、ここの社務所で歴史勉強会を開催したことがある。この時岩神社を見学し近隣の関係者に建立の岩神社経緯を聞いた。それによれば塚の跡として祠をたてようとして土地を整備しようとした時、地下から石が出てきたという。石は扁平で祠の台にちょうどよいためそれを利用し、他にも石が出土したので祠のまわりに設置したという。勉強会の講師に招いていた橿原考古学研究所の千賀久先生はこれを見て石は石槨の蓋であることを即座に断定された。蓋であれば石槨もあるはずで、関係者は当時を思い出しながら、さらに大きな穴があったように記憶しているとか。古墳は蘇我氏の先祖のどなたかであろうことは先生も当然予測でき、蘇我氏のどこまでさかのぼるのか興味はつきないが、今は立派な祠の神社になっているため再度の発掘はままならず、歴史は地下に潜ったままになっている。


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           岩神社

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       塚から掘り出されたといわれる石 土台石

以降、蘇我氏は隆盛を極め明日香に進出して馬子、蝦夷、入鹿と歴史の記述するところとなるが大化の改新をもって権勢は藤原氏にうつり歴史から消えていった。日本書記に、日本の正史として記述されたのが、歴史の唯一の真実とされて曽我氏は天下の極悪人の烙印をおされ1300年の不遇をかこうこととなる。しかし、土地の人々は必ずしも正史を信ずることなく、蘇我氏の遺徳を偲び、歴史を守ってきた。藤原氏に反感を持ち、多武峯の藤原一族につながる者との婚姻をいまだに嫌うといわれている。その後持統天皇が蘇我氏の子孫に対し曽我神社の建立を許可して現在の神社になったらしい。最近古代史も見直し風潮が起こり、蘇我氏は歴史に記録されていることが必ずしも正しくはない。むしろ、日本書紀こそ藤原氏の歴史捏造であるとの論議がたかまっている。この辺になると何が正しいのかわからなくなるのであるがそれもまた古代史の面白さであろう。蘇我氏の出身が何処であるかは諸説あり確定はしていないようである。①朝鮮からの渡来説 ②出雲出身説 ③羽曳野石川流域説 ④曽我川流域説など。ただ、朝鮮からにしろ出雲からにしろ近畿のどこかに居住したことに変わりはない。一箇所である必要もない。その後、権勢を高めるとともに蘇我氏は飛鳥に進出したのは歴史上の事実である。

自分の足下が古代史のルーツであることが奈良に住む者の誇りである。

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3.薬師寺の思い出

薬師寺の思い出

関西以外に住んでいた子供にとって、最初の奈良との出会いは修学旅行であろう。その時始めて見る大仏さんの大きさ、鹿にせんべいをあげる初めての体験は一生涯忘れられない思い出である。だが私は当時千葉県市川にすんでいて中学三年生の関西旅行に先立つ数年前奈良に来た経験がある。それは、祖父と兄貴と私の三人で高野山詣でにきたのである。いつだったか覚えていない。中学にあがる後か前かさだかでない。祖父が一度高野山に参りたいと親父に相談したのであろう。父の紹介で旅行の前か後に薬師寺に泊まることになった。薬師寺に泊まることになったのは、父が当時の管長であった橋本凝胤先生と知り合いであったからである。雑誌のスクラップを持ってきて写真を見せてもらったことがあるが、外国の訪問者を管長が案内しており、そこに父が写っていた。写真の説明に父のところを、一人おいてと書かれているのがおかしかったのを覚えている。旅行の道順は兄貴が計画したらしかったが関西にはいってどの鉄道をどのようにたどったか、全然おぼえていないのである。片道一泊したのか往復二泊したのかもおぼえていない。ただ、美しい宿坊と当時副管長だった高田好胤先生の薬師寺説明が大変上手で面白かったのをおぼえている。
当時といっても50年位まえのことである。その時はまだ昭和の大修理ははじまっておらず、薬師寺東塔と旧の講堂と東院堂があっただけで、本尊薬師如来と日光、月光菩薩は講堂におさめられており、奈良に多い古びたお寺であった。この中に現在の仏様を全部納めていたのであろうか。仏足石は庭の隅に雨ざらしになっていたのを覚えている。
数年たってお決まりの関西修学旅行に再度薬師寺を訪れた。この時も高田好胤先生にお寺の説明をしてもらったのをおぼえている。
三度薬師寺を訪れたのは、就職試験のときである。関東の人間が何故大阪に就職しなければいけないのか多少の違和感を覚えながら関西に来た前日薬師寺に泊まった。その時、接待された若いお坊さんとなにやら論争したおもいでがあるが、論点が何であったかおぼえていない。
当時住み着くつもりのなかった奈良にいつしか永住するはめになった。結婚し子供もできて家もたてたいとおもった。そこで奈良に住み着くことになったのである。

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屏風<薬師の里>

やがて、昭和の大修理が始まった。金堂ができ、西塔ができ、回廊ができ、講堂まで新築された。この間の高田好胤先生の八面六臂の活躍は驚異的であった。何回も先生の講演を聞かせていただいた。そしてついに、薬師寺は天平の輝きをとりもどした。父は何回も我家にきていた。そのある日、晩年に近いときであるが久しぶりに薬師寺をおとずれた。まばゆいばかりの薬師寺をみてポツンとつぶやいた。「新しいお寺はありがたくない」

すでに三人は霊界に住み、何を話し合っているだろうか。高田好胤先生はおやじに、どんな寺でも建立当時はみなキンピカだったのですよ。橋本凝胤先生は「まあまあ浮世のことなどどうでもよいではないか」などと話しているに違いないのである。

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志賀直哉の奈良上高畑サロン

志賀直哉の奈良上高畑サロン

志賀直哉が奈良市高畑に10年ほど住んでいた。東大寺の西側の道を南にくだり、現在奈良教育大学のキャンパスの北側の道を入ると、本薬師寺の前を北に入った閑静な住宅街にある。春日神社の境内と殆ど地続きとなっている。先日ここに訪れた時、あいにく工事中で、家の中に足をふみいれられなかった。仕方なく庭を一回りして工事している家の中を覗くだけだった。五月になればオープンするとのことであった。
 志賀は1883年(明治16年)陸前石巻で生まれた。祖父がかつて古河市兵衛と足尾銅山を共同経営していたという。従って相当な資産家であった。学習院の初等科、中等科に行き1906年(明治39年)、東京帝国大学へ入学し1910年中退した。
志賀の人生を辿るに彼と深く関わった四つの事柄が重要である。①内村鑑三との出会い、②白樺派の中心人物としての活動、③父親との葛藤、④東洋美術への回帰である。
内村鑑三との出会いは18歳のときで7年間通った。その間、キリスト教にそまり、当時はやりのプロレタリア文学に足を踏み込まずにすんだ。③の父親との葛藤は最初の恋愛問題から父の実業家であることによる作家志望への反対といった生き方に関する衝突で大層深刻なものであった。これが「大津順吉」、「正義派」、「和解」といった作品を生む。さらに母にまつわることなどが重なり、親との決別にいたる。そのことから世田谷、尾道、京都、奈良へと住居を移す。③の東洋美術との出会いは、尾道、京都、奈良時代に徹底して作品を鑑賞し、従来のキリスト教的、西洋個人主義に徹した思想に重大な影響を与えたようである。代表作「暗夜航路」は前編は1921年(大正10年)に発表し後編は奈良時代の1937年(昭和12年)の発表で完成まで16年を要した。勿論、殆どが中断の期間が長かったのであるが、その間の作家としての思想変遷が激しく、この作品だけで志賀直哉の人生を理解できる。志賀直哉に限らず、この時代の作家は自伝小説が多く、小説の題材を自分の人生経験にもとめているからである。

上高畑サロン
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 父親が資産家だったこともあり志賀の家計は父の仕送りに頼っていたようである。当然奈良の邸宅も仕送りであるが、志賀は建築にも関心を示し、設計はすべて自分で行ない、工事は親友の大工と共に作り上げたようである。彼は自分の生活や個室としての書斎に心を配り、友人との応接についても居間と食堂一体となった「上高畑のサロン」と呼ばれる部屋を用意し、白樺派文人に限らず多くの文人、画家等芸術家を招待しては麻雀、囲碁、将棋など遊興にすごし、殆ど作家活動をしなかったようである。作品も「暗夜航路」の後編と2~3の作品にかぎられた。勿論奈良を初め関西の名所旧跡を訪れ、特に東大寺別当の上司海雲とは特に昵懇の間柄であった。
 志賀が奈良に来る数年前、大正12年、関東大震災があった。この時谷崎潤一郎が芦屋に引っ越してきた。ここで「卍」「細雪」を制作したのであるが時々志賀の家を訪れては色々話をしたようである。お互いに関西の良さに共感し文学、芸術に話がはずんだ。しかし、関西の悪さも共感した。時にはコテンパンの悪口も言ったようである。
 1938年(昭和13年)志賀は家族共々鎌倉に移り住んだ。奈良を去り東京へ帰った後も「奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足りぬものを感じ、東京へ引っ越してきたが、私自身には未練があり、今でも小さな家でも建てて、もう一度住んでみたい気がしている」と奈良への愛着を表している。
 私事になるが自分も東京育ちで関西に就職した。結婚をし子供を設け、子供たちが学校に行くようになったとき、志賀と同じ思いにかられた。せめて自分だけは関東弁でがんばったのであるが、所詮空しいことであった。志賀と谷崎の会話に私も加わり2~3云いたいことがあったのである。

 

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運慶に会いに行く

運慶に会いに行く
 平成20年早春に運慶流出として新聞紙上を賑わせたオークションだあった。運慶作の大日如来坐像で座高61.3cm、ニューヨークでの出品で日本の宝がまた失われるのかと関係者はやきもきしたであろう。結局真如苑という宗教団体が三越に依頼し14億円という高値で落札した。真如苑は真言密教を母体とした教団で今後5年間公立の博物館等に預け調査・公開してもらい10年後に所有地に施設を建設し、公開して祀るという。土地はすでに日産の工場あとを手当て済みであるらしい。一件落着である。
運慶は生まれが分っていない。ただ、長男湛慶が1173年に生まれたのは記録に残されている。その後少なくとも男子5人の実子が弟子となっている。さらに、円成寺の大日如来が運慶初作品として1176年完成していることが分っている。従って長男誕生が20前後として1157年前後の生まれとおもわれる。1223年に没しているので享年66歳であるからそんなにかけはなれてはいない。
 平重盛の南都焼討ちが1181年、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件に代表する源平の争乱により、主たる寺院の建造物が消失し、1192年鎌倉幕府発足を機に寺院の復興機運が盛り上がった。当時運慶の父康慶の一門が奈良仏師を形成し京都の円派・院派とはりあっていた。どちらかというと京都派の方が金堂・講堂のような主要堂塔の造像を多く請負っていた。当時1057年に没した定朝の彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的な表情など、定朝の平明で優雅な仏像は平安貴族の好みに合致し、その作風は「仏の本様」と称せられていた。宇治平等院鳳凰堂の木造阿弥陀如来坐像(国宝)に代表する作風である。運慶の初期の円成寺大日如来坐像はまだこの流れをうけついでいるが若々しい作風がみずみずしい。さて運慶作といはれる大日如来像はこの真如苑と円成寺以外にもう一体存在する。栃木県足利市の光得寺の重文(座高31.3cm)の大日如来像である。
 一般に像の製作に関する情報は像の中に入れた体内物や台座の裏側、寺社に伝わる縁起書類によって知ることが出来るが、必ずしも書付を記すとは限らない。そういう意味で作者を特定できない作品は数限りなくあり、運慶作品だけでも発見されている作品以外にどれだけあるか分らない。また運慶作といえども100%特定しているとも限らない。この光得寺の大日如来像は樺崎八幡宮につたえられ、明治初年の神仏分離の際、光得寺に移されたものである。樺崎八幡宮の前身は足利義兼の開いた樺崎寺赤御堂で樺崎寺の縁起を記した「鑁阿寺樺崎縁起並に仏事次第」に記されているのである。そして真如苑の大日如来像はX線写真で判明した像内納入品の形態や納入方法が光得寺像によく似ており光得寺像の前段階の特徴を有している。「鑁阿寺樺崎縁起並に仏事次第」によれば樺崎寺の下御堂というお堂に建久四年(1193年)11月6日の願文に厨子に入った三尺皆金色の金剛界大日如来像があったと記録があった。座高もよく似ており真如苑像発見時にこの書類により特定したという。(山本勉氏) 運慶は人生前半は当時の武家の興隆と共に関東地方に多く造像を依頼され納品されているが後半は名声が上がるに従い興福寺、東大寺など関西方面に活動の場を求めたようである。

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苑池より楼門を望む

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中に大日如来坐像が鎮座する多宝塔

 運慶流出事件も収まったこの冬の一日、円成寺に運慶に会いに行った。春の坂道でおなじみの柳生街道を東進し車で奈良から30分、円成寺の山門に着いた。冬の平日で参観者は殆どいない。参道の苑池をとおして楼門をみれば絶好の写真スポットになっている。楼門はくぐらず通用門から寺の中に入る。入るとすぐに本堂がある。ここの本尊は阿弥陀如来坐像である。この手前に多宝塔があり中にお目当ての大日如来像がある。多宝塔は中に入れず、ガラス越しで中に大日如来像を拝観することになる。外が明るく冬の日差しがさし中は薄暗く残念ながらはっきりと、像を見ることが出来なかった。写真も何回か撮ったが写りが悪く実用にはならなかった。運慶の大日如来像は残念ながらまほろば紀行には紹介出来ないので是非訪問して鑑賞していただきたいと思う。今回は若いころの運慶の作品を大日如来坐像に限って紹介したが、勿論東大寺南大門の二王像や興福寺北円堂の作品が円熟期に達した頃の作品で更に見ごたえのあることは云うまでも無い。

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「大和古寺風物詩」を再読して

「大和古寺風物詩」を再読して

 久しぶりに本箱を漁っていたら一番奥から「大和古寺風物詩」が出てきた。前に一度探したことがあったが見つからずに止めた事があった。それが探してもいないのに出てきたのだ。懐かしくなってペラペラめくっているうちにいつか一冊読み終えて、かって読んだ内容をだいぶ詳しく思い出すことができた。写真家入江泰吉の写真が美しい。「まほろば紀行」を書くときのイメージとしていたが、その観察眼や感受性といったところがいかんともしがたく、あまりにかけ離れているのに愕然とした。まあ気をとり直してその感想などをかくことにした。
 亀井勝一郎は1907年函館市生まれ旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)から旧制山形高等学校(現山形大学)1926年に東京帝国大学文学部美学科に入学、1927年には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒し、翌1928年には退学。4月には治安維持法違反の疑いにより投獄され、1930年保釈される。1932年にはプロレタリア作家同盟に属す。その後、仏教との出会いにより開眼し、親鸞の教義を信仰し、宗教論、美術論、人生論、文明論、文学論など人間原理に根ざした著作を連載した。「日本人の精神史研究」は彼のライフワークとなる。1966年死亡した。
 私の本は1971年刊行で幸いにも購入納品書まで綴じこんでいた。見ると昭和48年1月18日となっており,かれこれ40年前ということになる。亀井が奈良に再々訪れていたのは本の中に記されているのを抜書きすると以下のとおりである。(いずれも昭和)

  斑鳩宮  17年秋 17年秋 20年秋
  法隆寺  12年秋 13年春 16年秋 17年秋
  中宮寺  14年春 17年秋 20年秋
  法輪寺  17年秋
  薬師寺  14年春 17年秋
  唐招提寺 17年秋
  東大寺  17年秋 17年秋 17年秋
  新薬師寺 17年冬

奈良豆比古神社の翁舞

奈良豆比古神社の翁舞
 奈良坂(旧奈良街道)を北上すると奈良豆比古神社がある。この神社は志貴皇子がその息子春日王のために建立したのが始まりといわれている。志貴皇子は(志貴皇子の憂鬱)で紹介したように天智天皇の第七皇子であるが、世は天武天皇の時代になり、不遇をかこっていたが、称徳天皇で皇統が途絶え、実子白壁王が第49代光仁天皇となる。春日王は第二子となるが生まれつき病弱で、病気療養のために別荘をたてたのが始まりといわれている。春日大社との関係が深く、古くは奈良坂春日社と呼んでいたようで、石燈籠にも春日社と刻まれているものもあり境内の樹齢千三百年の樟の巨木は県の天然記念物に指定されてる。この神社は二十年毎に御造替が途切れることなく行われているという事で常に新しいお姿をあらわしている。本殿は一間社春日造が三殿相並んでいて、中央が産土の神・平城津彦神(奈良豆比古神)、右側に志貴皇子、左側に春日王(志貴皇子の第二皇子で矢田原太子と号し、土俗矢幡神という)。

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 奈良豆比古神社本殿

 この奈良豆比古神社には芸能の神様でもある。春日王の子孫は春原氏を名乗る。毎年十月八日宵宮に行なわれる翁舞は県の無形文化財に指定され『歌舞音曲の神』として芸人達の崇敬を集めている様である。翁舞は歴史がふるく猿楽の源流とも言われている。

 南北朝時代には多くの猿楽の座(劇団)があり、中でも大和を本拠地とし、物まねや会話の面白さが持ち味で、鬼の演技を得意とする大和猿楽と、近江を本拠とし、優美な幽玄の芸風が売りの近江猿楽の二大勢力があった。とはいえ北条高時の田楽好きはとみに有名で、当初は歌舞や曲芸主体の田楽のほうがポピュラーであった。このような田楽全盛期に大和猿楽・結城座(結崎の面塚と観阿弥の能**参照)の太夫として座を統括していた観阿弥が現れ当時の「小歌がかり」の猿楽能の謡に、当時大流行していた「曲舞(くせまい)」のリズムを取り入れるという音曲革命を行なった。彼の作曲した「白鬚の曲舞」が大ヒットし、この頃から猿楽能は田楽と肩をならべるほどになった。醍醐寺での興行を機に、観阿弥は京都への進出を果たし京極の佐々木道誉や足利義満の側近海老名の南阿弥ら有力者に引き立てられ、文化人との交流を通じて、上流階級に好まれる作能を要求された。観阿弥は永和元年(1375)当時12歳の世阿弥を伴い京都今熊野で猿楽能を興行したが、これを見学した将軍足利義満は、以後、観世親子に絶大な支援を行なうようになる。世阿弥は30代後半には観世座の太夫を継ぎ、ますます将軍家に引き立てられた。
 この世阿弥に、なかなか子に恵まれず、弟四郎の子元重(音阿弥)を養子にしたが、その数年後元雅・元能と相次いで実子が誕生する。この頃から世阿弥は能を「次世代へ引継いでいかなければならないもの」と意識するようになり応永7年に第一次の完成をみた「風姿花伝」を皮切りに、実に21種類の伝書をのこしている。彼が書いた伝書は、役者としての実体験に裏打ちされた実践的かつ具体的な内容が多く、現代人が読んでも納得できる普遍性を持つ。
 脚本家としても卓越した才能を持っていた世阿弥は将軍義持とその周囲の人々のお眼鏡にかなう能を作るために、大和猿楽がお家芸としていた物まね中心の能から方向転換し、美しさ主体の歌舞能を志向するようになる。キーワードは「幽玄」で「平家物語」や「伊勢物語」など当時の知識人の馴染みの深い古典に題材を求め、旅人の夢の中に超現実的存在の主人公が現れて、過去を回想して舞をまったり、自身の最期の有様を再現して見せたりする「夢幻能」の形式を完成させた。
 世阿弥の息子元雅は、能に「心理ドラマ」とでもいうべき新境地を打ちたて、娘婿の金春禅竹は世阿弥の確立した夢幻能の世界をさらに深めてゆく一方、人間ドラマの中に歌舞能の世界を展開させる新風の作品を生み出した。

 この世阿弥の「風姿花伝」の中に猿楽の起源について言及している。それは風姿花伝第四 神儀の巻で
①「申楽、神代の始まりといつぱ、天照大神、天の岩戸に籠り給いし時、天下常闇になりしに、八百万の神達、天香具山に集り、大神の御心をとらんとて、神楽を奏し、細男(さいなう)を始め給ふ。中にも、天の鈿女(うずめ)の尊、進みいで給ひて、榊の枝に幣を付けて、声を上げ、火処焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ舞ひ奏で給ふ。その御声ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。国土また明白たり。神達の御面白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと、云々。くはしくは口伝にあるべし」と古事記おなじみの物語がでてくる。
②さらに天竺での猿楽の始まりと称して、釈迦が祇園精舎を建てたときの祝いの席で宴席しているときに、邪魔するものがあり、舎利弗の知恵で六十六番の物まねをして追い払ういきさつを記している。
③さらに日本の猿楽の起源として秦河勝と上宮太子の物語を記している。
④平安朝の猿楽の起源として村上天皇と秦氏安の項が記されている。「……その後、六十六番までは一日に勤めがたしとて、その中を選びて、稲経(いなつみ)の翁、代経(よなつみ)の翁、父の助(じょう)、これ三つを定む。今の世の式三番、これなり。すなはち、法・報・応の三身の如来をかたどり奉る所なり。式三番の口伝、別紙にあるべし。」
⑤当代の猿楽の起源として興福寺薪猿楽に言及している。


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翁の舞い

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 翁の面

 ここにいう式三番の猿楽の古式が奈良豆比古神社の翁舞である。世阿弥時代の能楽と違い、「翁舞」は確かに洗練されているとは言い難いものがあるが、古式に則り幽玄さを感じさせる。奈良豆比古神社は、延喜式神名帳にその名が見られる由緒ある古社である。毎年10月8日、町内の翁講・翁舞保存会の人々によりに「翁舞」が神社に奉納されるが、詞は口伝、舞や演じ方も直伝の形で伝承されている。この舞は、能の原型となった申楽(猿楽)にある式三番の形態を有していて、国の重要無形民俗文化財に指定されている貴重なものである。

観世左近の勤める「翁」は現在、もっとも一般的に上演される式三番は以下のような形態をとっている。

1.序段

 (1)座着き:笛の前奏によって役者が舞台に登場する。
 (2)総序の呪歌:一座の大夫が、式三番全体に対する祝言の呪歌を謡う。
2.翁の段
 (1)千歳之舞:翁の露払役として若者が舞う。
 (2).翁の呪歌:翁が祝言の呪歌を謡う。
 (3).翁之舞:翁が祝言の舞を舞う。
3.三番叟の段
 (1).揉之段:露払役の舞を三番叟自身が舞う。
 (2).三番叟の呪歌:三番叟が千歳との問答形式で祝言の呪歌を謡う。
 (3).鈴之舞:三番叟が祝言の舞を舞う。

また、奈良豆比古神社には古い能・狂言面が二十面ほど伝承されていて、それらの多くは室町時代製作とされているが、中でも、能面の「ベシミ」は室町初期の応永二十年(1413)の銘を持つ古面である。これらの面は、平素は奈良国立博物館に保管されているが、「翁舞」の日に限り、神社境内にある資料館にて拝観することができることになっている。
 

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転害門とナラノヤエザクラ

転害門とナラノヤエザクラ
 ナラノヤエザクラは伊勢大輔の詠んだ和歌により名高い。

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな

このナラノヤエザクラは奈良にはえている八重桜という意味ではない。れっきとした学術用語である。花を良く見ると勿論八重桜でもなければ、ソメイヨシノでもない。オクヤマザクラ(カスミザクラ)の変種で、4月下旬から5月上旬に開花する八重桜である。他の桜に比べて開花が遅く、八重桜の中では小ぶりな花をつけるのが特徴である。上の和歌にあるように、奈良時代から桜があったようで、この歌はナラノヤエザクラを歌ったものとわれている。

 さらに江戸時代初期、1678年に出版された『奈良名所八重桜』は奈良の八重桜について記述している。天平時代、聖武天皇は三笠山(いまの若草山)奥の谷間で美しい八重桜を見つけ、その八重桜の話を光明皇后にしたところ、光明皇后は一枝でも構わないから見てみたいと大変興味を持った。聖武天皇の臣下たちは気をきかせ、その八重桜を宮中に移植した。以来、春ごとにその桜を宮中の庭で楽しみ続けられたという。

 いがいにこの花のことは奈良でも知られていないが、奈良県の県花になっており、天然記念物である。先日テレビを見ていたら、奈良女子教育大学の生徒がナラノヤエザクラの花びらを醗酵させて日本酒を作っていたが、出演者の試飲によると大層うまいとのことであった。機会があれば飲んでみたいものである。

 実はナラノヤエザクラを知ったのは去年のことである。ブログを書いている関係でHPの表紙にと、生えているところを調べて奈良に写真を撮りにいったのであるが早すぎて撮りそこない、すこし時間をおいてまた撮りに行ったら散ってしまっていた。今年こそと思い連休明けに奈良に出て行った。この花の咲いているのは奈良県庁前、東大寺転害門の付近、知足院と奈良公園の中で、知っていないとついつい見逃してしまうほど、ポピュラーな花ではない。いわゆる桜のように咲き乱れて春爛漫というものではなく、一本ずつ、間隔をもってひっそりと咲いているのである。
写真のナラノヤエザクラは転害門の内側、奈良市立鼓阪小学校(つざか)の門の外側に数本さいていた。この学校は奈良の最初の小学校で歴史が古いのであるが何と言っても転害門の偉容に圧倒される。転害門の真西に一本の道があり、これが平城京に通じる一条通りである。転害門は数ある東大寺の遺構の中でも、創建当初の姿を伝える唯一の遺構であるという。

東大寺内には手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)が鎮座する。これは天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。この神社への御旅所として神輿が転害門より出発した。

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転害門の西側


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転害門裏のナラノヤエザクラ

 

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 東大寺は数々の戦乱や災害の中でも、二回の大きな戦乱に見舞われた。特に第一回は治承四年(1180)十二月二十八日のことである。ことのおこりは、後白河法皇の皇子の以仁王が、源頼政とはかって、平家討伐の兵を挙げようとしたことにある。しかし、計画は早くも平家にかぎつけられたため、以仁王は園城寺(三井寺)へ逃れられたが、平家の軍は、源氏に味方する延暦寺園城寺に焼打をかけた。
 以仁王は南都へのがれようとする途中でつかまって殺されてしまった。
 かねてから、以仁王に味方していた、東大寺、興福寺の衆徒達は、その報を聞くと、平家の無道をなじって騒ぎたてた。怒った平清盛は、その子重衡に命じて、大軍をひきいて南都に攻め入らせ、東大寺、興福寺の諸方に火を放って、またたく間に堂宇のほとんどを焼きつくした。この時、廬舎那仏の御頭は後に落ち、左右の御手も折れて前に横たわるという見るも無残なお姿になってしまわれた。
 東大寺復興の活動は早くからおこなわれ、重源によって再興された。平家の無謀な行為に対する非難の声に応えて、源頼朝の大いなる援助を受け、やがて落慶法要をおこなうこととなる。これに参加すべく頼朝は鎌倉を発ち、東大寺に到着する。このことを、早くから聞き知っていた平家の残党悪七兵衛景清は春日大社の神人に変装して物陰に隠れ、頼朝殺害を画すが、警備厳しく家来の者に追われ、転害門に隠れた。そしてその後いずこかに立ち去ったという。そこでこの門を「景清門」とも呼ばれるようになった。この件は能曲「大仏供養」にあり、また景清は能の世界でも堂々と主役を張っており、伝世阿弥作「景清」では鎌倉からはるばる日向に彼を訪ねてきた娘に源平合戦の事を語る、いはゆる亡霊となってあらわれる。
 第二回目は松永久秀と、三好三人衆の争暴である。松永勢は、多聞城に拠り、三好勢は大仏殿に陣を張ったので、その激しい攻略は、東大寺を戦場として行なわれた。そのため、それまでにも、文殊堂、授戒堂、戒壇院、千手堂その他の建物が焼け落ちていたが、十月十日の夜、多聞城を出た松永勢が、三好勢の本陣大仏殿に焼き打ちをかけた。虚をつかれた三好勢の防戦はおよばず、火は廻廊をひとなめにして、大仏殿に燃え移り、ものすごい火柱を立てて、大音響と共に炎上してしまった。
 このように、度重なる争乱を耐えてきた転害門の歴史は、東大寺の大仏殿や南大門の華々しい存在とは裏腹に地味な存在であるが、重みがある。貴重な国宝である。出入門は特に争乱の時、敵味方入り乱れる出入り口となるために、火災炎上しやすい。特に奈良の中心に存在し1300年の星霜を生き抜いた存在感に感無量である。
 

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